[2]日本人起源説の再挙 | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

日本人起源説は、ケンペルの「日本誌」の第六章に「日本人の起源について」というまとまった論文が残されている。


この本は日本の研究としてその時代の多くの外国の研究者に読まれたと思われる。
後年日本にやってくるシーボルトもケンペルの本を参考にしていた。。


外国との交流でその知識を吸収しようとする熱意ある日本人には興味あるテーマに違いない。
かと言って、十分な情報を海外から得られるものではなく日本人の間でもそれ以上の研究成果はどうなったのかよくわからない。


しかし、三浦梅園(1723~1789)によって読まれ、平田篤胤(1776~1843)にも影響を与えたのではないかと以下のサイトからうかがえる。


参照:博物学者エンゲルベルト・ケンペルの生涯
http://www.flc.kyushu-u.ac.jp/~michel/serv/ek/chron-japanese01.html


平田篤胤は復古神道で名をはせたが、神代文字等江戸時代に創作したものが多かった。
国学者としてはあまり信用のおけるものでないという印象がある。


江戸時代後期に元の神道を取り戻そうというこのような動きが出てきたのもケンペルの論文の影響が大きかったのではと今では想像する。


ケンペルの論文の真偽はともかくその考え方、比較の仕方、想像力、日本以外の国との関係の事など現代読んでも魅力的な構成である。


江戸時代はとかく日本を中心に据える思想で広まったが、明治以降、外国で学問を納めるものが出てくると、原田敬吾氏をはじめそのテーマで研究するものは、日本人渡来説を主張するものがほとんどだったのではないだろうか。


そのことを危惧した伊予大三島の三島宮司が大正12年原田敬吾氏の所へ訪ねてゆく。


日本人起源説に刺激を受けてのことだが、宮司としての信念は以下のようなものがあった。


日本建国史の徹底と我民族伝統の精神たる理想信仰の確立とは、国民思想の根底であらねばならぬ。然るに古来我が建国史は徹底せらるるに至らず、従って国体の根源に懐疑を生じ、動もすれば民族伝統の精神は破壊せられ、今や欧米の主我的思想に遇へば、忽ちにして人心の頽廃思想の悪化動揺を萌し、将に国家の重大なる危機として上下愕然たるものがある。


余輩は若年にして神武天皇は呉太伯(ごたいはく)の裔なりという妄誕説ありと聞き、慨然として建国史の不徹底は必ず国体の欠陥にして、国家の禍根なるべきを深く痛感せざるを得なかった。然して余は建国史の研究を試みたるも水泡に帰し、時勢は推移すると共に、ややもすれば我が国体の淵源は欧米人によりて抏弄的研究せらるるの処あり、日本民族の汚辱これより甚だしきはなく、焦慮哄嘆措く能はざるものがあった。かくて余は深く感ずる所あり、我が国体の根底たる皇室並古代神社と創祠氏族との研究を試むるに至った。


(『天孫人種六千年史』序、1~2頁、三島敦雄著、昭和二年)


大三島の記述は、飛騨が高天原であると調査発表された、山本健造翁による著書「裏古事記」(ヤマケン出版、1998年)には、このように由緒ある所として登場する。


大三島は、皇紀に先立つ二百年前に飛騨から瀬戸内海方面へ開拓に出られた山下住命の一族の子孫によって開かれた。

ヒルメムチ命(天照大神)の孫であるニニギノ命が筑紫(九州)平定に向かう途中、大三島に立ち寄られた。


ケンペルは上流貴族階級との交流から知識を得る機会が多かったようだ。一般には知られていないことも知っていたのではないかと思われる。外国の資料とケンペル自身の調査で日本人の起源を探ったが、日本国内の事情は、当時の現地の風習や通訳から聞き出すしかなかった。


日本人自身、今日にいたるまで伊勢の国をかれらの始祖の定住地であると信じ、毎年伊勢参りをする慣わしがあるが、これを見るにつけ私は、伊勢がかれらの最初の定住地とする説の正しさが裏付けられていると思うのである。

(『日本誌』ケンペル著、昭和48年版、204頁)


たしかに伊勢は天照大神を祭る重要な場所だが、観察眼のあるケンペルでも間違えたのは仕方がない。
このことは、日本人でも忘れられている建国の歴史があるということになる。


三島宮司は、大三島というこれだけ由緒ある立場でありながらも、建国史として伝えられるものがなかったと言っている。


それは、幕末明治維新で替わった国家権力による神社たる位置づけで、最初律令制にならって政治をつかさどる太政官の下に置かれていた神祇官は、明治2年に神祇省に降格になり、その後教務省、内務省社寺局にさらなる格下げをされ、明治33年にはその社寺局も神社局と宗教局に分離されていく。


西洋化された明治政府の国体原理の不明瞭さのみならず、それ以前の「古事記」に記述されたところの縄文日本に降りかかった災難に拠って日本人の建国の意識が薄れてきたところが大きい。


その災難は、山本健造翁が飛騨の古老から口伝されて調査研究したものを「古事記」の記述と照らし合わし一連の本に書きとめてある。


そこには日本の基礎を築いた日本独自の縄文日本原住民の先祖たちという基幹があらわれる。

現代にも潜在的に持ち続けかろうじて残っている縄文日本的な要素の基幹を構築させていないと、渡来民族という考え方にいくらでも変化してしまう。


(2009年10月23日)


【参考】


山本健造著
「明らかにされた神武以前」
「日本起源の謎を解く」
「裏古事記」