原田敬吾氏と「バビロン学会」(5) | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

原田敬吾氏は会報「バビロン」から始まったが、研究が進むうち「バビロン」という枠にはまり切れないものを感じ取っていたことだろう。あいにく、大正12年9月の関東大震災で資料の消失に遭い活動が縮小されていった。原田氏の死後、原田氏の遺志を継ぐ者はいなかったようだ。


原田敬吾氏は『天孫人種六千年史』のあとがき[跋]に三島宮司との出会いをこう記した。


三島君が、日本民族の人種的系統を神社の方面より討ねんとする研究に関し、始めて予の事務所を訪はれたる過る大正十二年の春なりき。この研究は新らしき研究法の一方面として予の豫て提唱したる所に係り、既に大正七年十一月バビロン学会の第三談話会に於てシュメール系に属するバビロニアの日の神ウト、海の神ヤ―等が広く我国に崇拝されたる事蹟を指摘し、会員の注意を促してより以来、機会ある毎に予は其の意見を公表せり。然れども予が専攻の学科は異れる部門に在りて、是等の問題に深入りすべき余力なく、加ふるに予は我国の古典に暗くして神社の調査に多大の困難あり、孰(いず)れにしても奴鷹となりて学界を警告するは格別研究の遂行に就ては予自身に於て其任に堪えず。あはれ何人にも有れ、適当なる学者の出でて之れを大成するものあれかしと切望し居たる折柄、宿願空しからずして図らずも篤学なる三島君に逢ひ、一夕縦談放語の楽、得て忘るべからざるものありしなり。爾来信書によりて屢々君の質問に応え、敢て不学を顧みずして未熟の見を披瀝し来れる内、最近一裘葛杳として君が消息の絶えたるを異しみたりしに頃日突然その来訪を受け、尨大なる数百頁の原稿を示さるるに及び、さしも前人未到の荒野、君が数年の努力によりて一大美田と化したるを知り、拍手を以て君のために祝すると同時に我学会近来の快事としてまた国民の為に祝せり。(以下略)


大正15年12月
バビロン学会の研究室に於て
原田敬吾記す


(『天孫人種六千年史』[跋]、1~3頁)


原田敬吾氏と交流があった杉勇教授は、戦後1954年三笠宮崇仁殿下とオリエント学会を作り、今でも東京教育大学、筑波大学へと研究が存続しているというが、原田敬吾氏とは関係ない。


(2009年10月26日)