次の日もいつもと何ひとつ違いはなかった。
教室に流れる空気も、梅雨の時期独特のじめじめした湿気さえも、当たり前に過ぎていく日々と変わりはなかった。
「つまんねーなぁ」
いつものように汚い言葉で島田を罵倒するハジメとその仲間たち。
この日のハジメは、いつも以上に殺気だっていて、仲間たちさえも少し引き気味に彼の隣に立っていた。
むしゃくしゃを抑えきれなくなったのか、ハジメは右足で教卓を蹴り倒した。
その衝撃音に体が震える。
島田は怯えた顔でゆっくりとハジメを見つめている。
あたしは一瞬後ろを振り向いた。
空席が目に映る。新は今日も来ていない。
「山下ぁ!来いよ」
ハジメが声を荒げた。
静まり返る教室内。誰もが山下君に視線を移す。
山下君は、ハジメとはまるっきり正反対のタイプの人間だ。
銀縁眼鏡をかけていて、いつもひとりで読書をしているおとなしい人。
そんな山下君に、何の用事があるというの?
急に名前を呼ばれて山下君本人が一番驚いているようで、視線が宙を泳いでいる。
「やーまーしーたー」
ハジメは教卓から離れると、がに股で肩を揺らしながら山下君の前に立つ。
ハジメという大きな壁が立ちはだかり、あたしの席から山下君は見えない。
視界いっぱいに映る、ハジメの背中。
静寂に包まれる教室。張り詰める空気。
緊張が走る。
あたしは生まれて初めて、静寂が怖かった。
怖くてたまらなかった。
その次の瞬間。
ハジメは仲間たちを振り返り、口角を引き上げニヤリと笑った。
その顔があまりにも不気味で、あたしは思わず視線を逸らした。
ズルズルと引きずられる状態で教卓の前につれていかれた山下君。
島田と同じように体を小刻みに震わせ、瞳がぐらぐらと揺れている。
「殴れ」
ハジメが言った。
え?
殴れ?
その言葉の意味を、あたしは理解できない。
「殴れっつってんだろ!」
今度はさらに怒鳴り声をあげ、山下君は宙に浮く。
ハジメが胸ぐらを掴んだのだ。
フルフルと首を左右に振り、ズレた眼鏡のまま拒否をする山下君。
「チッ」
大きな舌打ちをすると、ハジメは山下君を床に思いっきり叩き付けた。
山下君は壊れた人形のように鈍い音をたてて、床に転がった。
「よーく見とけ。こうやるんだよ!!」
「ぐわっ」
ハジメは笑いながら、島田を蹴り飛ばした。
島田はお腹を抱えてのたうち回る。
「殴ったら手が汚れるから蹴りにしてやったよ」
ハジメが笑う。
彼の仲間が笑う。
下品で、耳障りな笑い声が響く。
何で笑うの?
何が楽しいの?
「明日から一人ずつコレをやることー」
わざとらしく手を挙げて提案する、ハジメの仲間のマサシ。
明日からひとりずつ??
目の前が真っ暗になる。
まわってくる、確実にあたしにも。
「明日はとりあえず山下、お前!」
山下君を睨み、ハジメを続けた。
「俺って優しいから。チャンスを与えてやってるんだよ?わかるよね?できなかったらお前がアレだよ」
首をクイッツと動かす。
アレ=島田
やらなきゃやられる。
できなきゃやられる。
静まり返った教室内。
恐怖と絶望の中で、あたしたちの第二の日常が始まった。
一日中、みんな口数少なく過ごした。
考えているのは間違いなく島田のこと。
いつ、どの順番で回ってくるのかわからない恐怖。
やりたくない、だけどやらなきゃ自分がやられる。
ハジメに逆らう勇気なんて、あたしは持ち合わせていない。
それはあたしだけでなく、ハジメの仲間以外の生徒、すべてに当てはまるはずだ。
「ねぇ、最近毎日ひどくない?」
昼食時間、顔をしかめながらそう呟いたのは陽菜だ。
あたしはあれから、陽菜、裕子やん、玲奈と4人で行動を共にしている。
陽菜の言いたい事が島田のことだとすぐに理解できた。
「毎日嫌になる・・・」
「ハジメたちやりすぎだよね?島田が可哀想」
「でも、何もできないよ」
「それはそうなんだけど・・・」
周りに聞こえないようにヒソヒソと話す。
ハジメの仲間に聞かれたくない。やっぱり彼等が恐い。
「新は学校になかなか来ないし、毎日つまんないー」
そう言ったのは、新に思いを寄せる玲奈。
彼はごくたまにフラッと学校に現れ、フラッと帰っていく。
学校に来ない理由はわからないけど、家庭内に何か事情があるという噂を耳にした。
それ以上は誰も知らないらしい。
だからその話の真相もわからない。
誰とも行動を共にしない、一匹狼な彼。
どこか陰があり、ミステリアスな一面が、玲菜だけでなくたくさんの女を夢中にさせている。
「早く新に会いたいな」
握りしめたフォークにウインナーを刺す玲奈。
「大川君は謎だよね。全然学校来ないし、何してんだろ」
あたしはあえて“大川君”と呼ぶ。
“新”と呼ぶのが恥ずかしいからなのか、“大川”という自分と同じ名字に無意識に特別な感情をもっているのか、自分でもよくわからない。
「次に学校来たらもっと話しかけるんだ!」
玲奈は彼が学校に来る度に積極的に話しかけるようにしているらしく、気合はいつでも十分だ。
「玲奈の話は置いといて話戻すけど、これ以上島田いじめエスカレートしないといいね」
遠くを見つめながら、願うように呟いたのは裕子ちゃん。
「イジメなんていつか飽きるんじゃないの?」
玲奈はどこか他人事のように言った。
たしかにあたしたちは直接的に関わっているわけじゃない。
ただ、傍観していることは罪じゃないのだろうか。
見て見ぬふりをすることは、正しいことなのだろうか。
「こんな無意味な話するのやめない?勝手にやらせときゃいいんだよ」
玲奈が今度は明るく言った。
陽菜と裕子ちゃんはそれに頷くこともせず、ただ、うつむくだけだ。
「・・・・早く、やめてくれるといいね」
あたしがいうと、玲奈以外が静かに頷く。
何も起きませんように――。
あたしたちは、たしかにあの日、強くそう願った。
新しい生活は当たり前に馴染んでいき、気づいたころには新しさを失う。
つい最近まで新鮮だったすべてのことが、平凡な日常に変っていく。
隣で笑う友達。
挨拶を交わすだけのクラスメイト。
相手にされない担任。
目に映るこの生活が、あたしのすべてになろうとしていた。
相変わらず窓際の席から空を見上げてみると、真っ暗な空が姿を見せる。
梅雨の時期だからか、それともこれからおこるさまざまな出来事をあらわしていたのか、
そんなことあたしには全くわからないことだったけれど。
いつだって自分が可愛くて、自分が大切なんだ。
自分を守るために、あたしたちは他人を傷つける。
他人を傷つけることが、自分を傷つける結果になることに気づかずに。
「消えろっつってんだろ!!」
朝のHR、教室中に響き渡る罵声。
もう、こんな光景が毎日続いている。
あたしは顔をあげたくなくて机に顔を伏せているけど、耳みは確実に声が届いてくる。
「何で毎日来んだよ!」
「ウザいんだよ!存在が!!」
聞きたくもない言葉の暴力が耳に入ってくる。
「お前がいると教室がクセェんだよ!おい!聞いてんのか!?」
「おーい。島田。お前生きてる?死んでんじゃないの?」
どっと笑いが起こる。
どこが笑いのポイントなのだろう。面白いことなんて何一つない。
少しだけ体をおこし、罵声の飛び交う教室内を見渡してみる。
あたし同様に突っ伏している人、音楽を聴いてる人、読書をしている人。
みんなそれぞれこの苦痛な時間をやり過ごす。
机の上にどっかと座り島田に醜い言葉を投げるのは、宮元ハジメ。
きれいに染まった赤い髪をガタイのいい体は、いわばクラスのジャイアン的存在だ。
誰も逆らわないし、恐ろしくて逆らえない。
そんなハジメを、数人の男女が囲んでいる。
金髪の男数人に、香水をつけた女の子たちが混ざるグループ。
あたしは勝手にハジメ軍団と呼んでいる。
あたしはもちろんその仲間には入らないけど、教卓の前でオロオロする島田を庇うことも助けることもしない。
それはあたしだけじゃなくて、ハジメ軍団以外みんな見て見ぬフリなのだ。
時折島田が何もいわない生徒達に目を向けて、“助けてアピール”をするが、みんな決まって目線を逸らす。
あたしも、その中のひとり。いつの間にか視線を合わせないために、机に顔を伏せるのが日課になっていた。
巻き込まれるのが恐かった。関わることが恐かった。
あたしたちはただ、平穏に暮したかった。それだけだった。