『海辺のカフカ』(上) 村上春樹
海辺のカフカ (上) (新潮文庫) Amazon 海辺のカフカ、は僕が最初に読んだ春樹の本だと思う。高校二年生のころ、読書なんて興味のなさそうなイケメンのチャラ男が「海辺のカフカって本読んでるんだけど、よんだことある?」なんて聞いてきたから読んでみた。そのときはガキだったから、今見たらなんとも思わない性的描写にいちいち腹を立てていた記憶がある(いや、腹を立てていたというか、「なんてハレンチな!(チラっチラっ)」ってやつだろう、まあガキだった) そんなわけで、当時は「村上春樹が当代一の作家なんて、世も末だね」みたいなことをしたり顔で言っていた気がするが、そんなこと言いながら思いっきり村上春樹に影響を受けていたことに気付かされたのが、今回の再読だった。 おそらく、17歳から19歳くらいにかけてが最も、人が「本を読み始める」ようになる時期じゃないかと思う。もうちょっと若い時期はどうしても、読書感想文という悪習のせいで、本というものを「えらい人が言ったこと」だとか「見習うべきお手本」なんてものとして捉えさせられていたように思う。だいたいなんだよ、塩狩峠なんて中学生で読んでも「吉原ってなんだよ、枕をともにするってだけでなんでこんな赤面してんだよ」ってことばっかり気になって最後の線路へと身投げシーンなんてどうでもよくなってくる。それでもしゃあないから自己犠牲の精神が云々なんて書かされるわけだ、いやな記憶だ。まあそんなわけで、「悪い本」をちゃんと読めるようになってからじゃないと村上春樹に拒否反応が出てもしかたないなあと思ったりもする。 それはいいとして、いずれにせよ、17歳から19歳にかけて、自分では否定しつつも、僕のなかのヒーローはなぜかカフカ少年だったように思う。今でも覚えているのは、プリンスっていう耳慣れない歌手をカフカ少年が聞いていたから、ツタヤに行ってプリンスを借りたこと。なんで受験生時代レディオヘッドとプリンスばかり聞いていたのかといえば、カフカのせいだったかもしれない。 ヒーローということでいえば、より正確には図書館の大島さんのほうがしっくりくるか。血友病だったかで、怪我をしたら即命に関わる彼は医者から運動を禁止されている。代替行為として彼が行うのは、高速を爆速で走ること。高速で事故れば健常者も血友病患者も死の前では平等理論だ。なんだか妙のこの断片が記憶に残っていた。 フェミニスト二人組と大島さんとのバトルがとても面白い。結局僕のなかでの「フェミニスト(笑)」への警戒感というか、眉唾感というのはここに端を発するようだ。(念のため言っておきますが、フェミニスム全体を批判したいわけではありません、春樹も僕も) あなたは典型的なマッチョだと罵倒された大島さんがソポクレスのエレクトルを引き合いに出し、「ジェンダー」というのは文法に関する言葉だから、この場合「セックス」を使うべきだとか、そこまで遡る必要があるのかよと思うほど深く広い古典文学の知識をさらさらと並べながら反論していく。そして、極めつけに「そもそも僕、生物としては女ですよ、ゲイだけど」というなんと言っていいかわからない事実を突きつけて無益な論争を終わらせる。(フランス語ではJe suis une femme, ajoute-t-il.なんていう添削待ったなしの文も生まれてしまう。) アンチ・フェミストのトランスジェンダーのゲイである大島さん、彼が嫌うのは想像力を欠いた人間だ。彼はフェミストも嫌いだが、LGB,Tを「怪物」と思って恐れる世間をも嫌う。適当に訳すと僕は他の人とは少し違っている、それは確かだ、でも結局のところ僕は一人の人間なんだ。僕は君にそのことを理解してもらいたい。僕はモンスターじゃない、僕は普通だ。僕は他の人と同じように感じるし、みんなと同じように行動する。でもこのちょっとした違いが本当の深淵になってしまうんだ(・・・)。 君が見たように、僕はこれまでいろいろな差別の犠牲となってきた。自分自身が傷ついた経験のある人にしか、それがどれほど人を傷つけるのかわからない。人はそれぞれ違ったように苦しみ、その傷跡はそれぞれ異なっている。僕は自分が他の人と同じような平等と正義を欲していたのだと思う。しかし、僕がどんな人よりも憎むもの、それは想像力を欠いた人間だ。彼らはT.S.エリオットのいう「空っぽの人間」だ。彼らはその空虚をわらの束で塞ぎそのことに気づきもせず、彼らが行うことについてなにも考えない。そして彼らの空っぽの言葉とともに、彼らは自分たちの無感覚性(無感受性)を他人に押し付ける。さきほどの二人のお客さんみたいにね。別に春樹とその小説の登場人物たちがえらいというわけではまったくない。奴らは飲酒運転の常習犯だし、基本的に常時浮気しているし、夢のなかではシリアルキラーだ。春樹の政治的発言をなんでもかんでも肯定するのは、それはそれでしょうもない奴らで、春樹の作品をしっかり読めていない人たちだろう。 とはいえ、十代の僕はこのカフカから、とりわけ大島さんと「僕」との長い長い対話から多くを学んだようだ。春樹のいつもの主人公、35歳くらいでスパゲッティを湯でながら、やれやれとアイロンをかけるいつもの主人公とは違って、カフカ君はまだ15歳だ。春樹にはとても珍しい年齢設定はこの小説を一種のビルドゥングスロマン、少年が大人の階段を登る物語として成立させている。 そして大島さんが僕の質問に答えながら引用する古今東西の古典がとてもよい。四国の個人図書館という場面設定がよく生かされており、孤独な少年が年上の友人との会話を通して文学に出会い(もちろんすでにある程度読んでいるが)、夢想と現実との間で分裂している状況にどう立ち向かうか、という非常に普遍的な問題へと発展している。1Q84などは日本の現代史、ねじまき鳥は同じく日本の近現代史に深く関わっていたが、こちらはギリシャ神話、プラトン『饗宴』、源氏物語、さらにはトルストイ、漱石まで、といった古典文学への導きが随所に散りばめられている。少年向けでもあるからこそ、春樹はトルストイやオイディプスなどの、教科書的な勘所をちゃんと丁寧に押さえていく(1Q84だとサハリン島の長い引用とかだったか)。 カフカ少年が思い悩む「自分ひとりだけの悩み」とは、大島さんによればそれこそ古代ギリシャの悲劇からずっと文学作品のテーマになってきた普遍的な悩みなのである。それは、カフカ少年の悩みを「それは誰もが通る道なのさ」と矮小化するのではなく、その逆に、「君は今、ギリシャから続く2000年以上の文学の系譜に足を踏み入れているんだよ」と言っているかのようだ。春樹のこの作品からは、古今の古典を現代の文脈で引用することで、より多くの読者に古典への扉を開く、現代作家としての使命を感じさせられる。 たとえばスティーブン・キングなどは自他ともに認める「大衆作家」だが、彼もまた古典の継承という問題を自らの作品の中で重要視している。『アトランティスの心』こそが、僕にとって本物の文学への扉だった。 最後になったが、偶数章で展開される「ナカタ」さんの物語もなかなか面白い。文字が読めないという現代日本では天然記念物扱いされる「ナカタ」さんは、猫と喋り、ジョニー・ウォーカーを殺した後、カフカ君の家出を追いかけるようにヒッチハイクしながら西へと向かう。 文字が読めないナカタさんが電車に乗れない場面では、漢字読めない外国人の苦労がようやく分かったり、トラック運転手たちと「無知な」ナカタさんとの不思議な道中がなんだか微笑ましかったりと意外な魅力がある。ネコ探しやもの探しが得意な登場人物といえばあの牛河さんが有名だが、あの気持ち悪さを期待したら肩透かしにあう、なんだよいつ闇の部分出てくるんだよ。 というわけで、まだ半分しか読んでいないが、最近まとめてほとんど全部の春樹の長編を読み返したなかでは、一番おもしろいように思う。