仏語で再読。

ウェルベックはあれだな、文体としては村上春樹と結構近いんだな。両方共をフランス語で読んだら、セックスの描写とか肉体の動きを重視するところとか似ていることに気がつく。もちろん、ウェルベックの主人公ってのは春樹の主人公とはまったく違う。

 滅びゆく「西洋社会」の、子供をもう作らないであろう、家系図の最後の一人になるであろう、現代的な西洋デカダンスを代表するようなダメ人間だ(2ちゃんでいう「おまえら」に多少近いが、無闇矢鱈と不特定多数とのセックスを始めるあたりは春樹の主人公に近いか)。

 

 この『プラットフォーム』は2002年の小説で、初期から中期にかけての作品。ゴンクール賞にもノミネートされていたらしいが、だれがどう考えても理解できるように受賞を逃す、だってこんな作品に「ゴンクール賞!」なんて帯をつけて高校生たちに売るのは社会的にまずいだろ。

 ストーリーは案外平凡で、パリの生活につかれて40男がタイへのツアー旅行に参加する。そこで、「マッサージ」屋さんにいって旅行の素晴らしさを知った主人公たちは、「いやし」をテーマとしたツアー旅行こそがこれからの時代の旅行スタイルではないかと考える。そしてこの「いやし」ツアーこそが、俗にいうセクシャル・ツーリスムというやつだ。西洋社会ではもはや「他人に奉仕する」愛を見つけることが出来ない、(もっとちゃんというと男に奉仕する女を見つけることが出来ない)、一方第三世界にいくとお金を払うことでそれを簡単に得ることができる。

 そんな新しいタイプのツアー旅行が軌道に乗り始めた、主人公と彼女がタイの女の子たちを交えた酒池肉林を繰り広げているさなか、ビーチからイスラム過激派が乗り込んで100人以上を機関銃で虐殺する・・・

 

 この小説がはんぱでなく問題なのは、まず第一に明白に人種差別を駆り立てているからである。もちろん、「ユダヤ人は嫌いだ」「イスラム教はキチガイだ」といったナイーブな批判はしない、いやだからこそこの本は危険なのだ。

 ウェルベック(の主人公は)は西洋人優位主義を、セックスの観点から否定する。西洋人の男はアジアの女の献身的なセックスに惹かれ、西洋の女は黒人の野性的な力強さにエキゾチックな魅力を感じる。この本ではタイの女たちが終始べた褒めされている。(一方、日本の男は、タイの娼婦に変な格好をさせたうえで触りもせずに自慰にふける変態扱いされている)

 もちろん、これで喜ぶ人なんているわけがない。この小説の登場人物の「おれはレイシストさ、だからタイの女が好きなんだ」という言葉にその本質が集約されているだろう。これは徹頭徹尾、西洋人の西洋人による西洋人のための、自己批判であり西洋文明批判なのである。西洋人の退廃を印象づけるために、自国民を総売春婦扱いされたタイからすればたまったものじゃない。

 

そして、ウェルベックが罪なのは、彼がとんでもなくいい文章を書いてしまうからだ。

彼がもちろん、小説という形式で、なおかつ最後にはイスラム過激派に殺されるという勧善懲悪的むりやりな展開を用意するという気配りをしていることは確かだ。それでも、レイシズムを魅力的な文章で伝播してしまうというのは、日本の読者にとっては「文学」という象牙の塔のなかに閉じ込められるものであっても、フランス国内ではまったく別の受け取られ方をせざるを得ないことはよく理解できた。

 

 今日飛行機に乗るということは、どこの航空会社、どこ行きであるかを問わず、飛行中は糞として扱われるということに他ならない。

 

こういう笑える文章が多くて読むのが楽しいことは確かだ。

 

彼がスポーツにうちこむのは、彼が僕に一度教えてくれたことだが、考えることを防ぐためなのだ。

 

ウェルベックって絶対スポーツマン嫌いだよね。この小説の主人公のミシェルもスポーツしないし。仲の良くない、冒頭で死んだお父さんは60過ぎの暇を持て余してバイクを漕いだりして息子よりも精悍だ。

 

俺はレイシストさ、彼は陽気にいった。俺はレイシストになったのさ、旅行というものの第一の効果というのは、人種的偏見を強化したり生み出すことにあるのさ。だって、知りもしない人たちについて想像することなんてできるかい?

 

この文章とか日本人にとっては耳が痛いな。もし日本人が自分たちをレイシズムとはかかわりのない人間だと思っているのなら、それはこれまで「旅行」をせずに住んでいただけなんだろう。

 

「白人が自分たちの優位を信じていた時代には、彼は言った、レイシズムは危険じゃなかった。植民者、宣教師、19世紀の世俗の教育者たちにとって黒人は、あまり凶暴でない大きな動物であり、・・・彼らは黒人を「劣った兄弟」とみなした。劣等者にたいして人は敵意を抱くことはない、善良な軽蔑心を抱くのだ。このにこやかなレイシズム、ほとんど人道的なものは、完全に消え去ってしまった。白人が黒人を「同等」だと認識し始めたときから、遅かれ早かれ彼らが自分たちよりも「優越」した存在だとみなすようになるだろうことは明白だった。「平等」という概念は人間には存在しえないのだ。」(主人公じゃないおっさんの独白)

 

ジュール・ヴェルヌくらいの時代の小説読んでると、いい黒人のステレオタイプってのがあって「開放奴隷なのに、主人を慕っていまでも使えている、犬と仲がよくて、子供と一緒に遊んだりもする、主人がいなくなったら三日三晩島を探し回る」といった「いい黒人」ってのが定型文となっている。

 もちろんそんなものはひどい欺瞞だ、だが20世紀をかけて達成された「平等」こそが、現代的な人種差別の根源だとこのおっさんはいうのだ。

 

 

正直言って、僕は現代芸術を取り巻く人々にほとんど尊敬を抱いていなかった。僕の知る芸術家たちの大半は「企業家」として振る舞っていた。彼らは注意深く、まだ新しい隙間を探し、いち早くそこに陣取ろうと狙っていたのだ。

 

これらのちょっとした引用をみただけでも、ウェルベックの登場人物たちが、ありとあらゆるステレオタイプに逆説を見出しながら、人がポリティカル・コレクトネスによって言ってはいけないとされているものを言っていることがわかるだろう。

 ただ、この本を読んで溜飲を下げたくなる気持ちも非常によく分かる。「天国」がタイのマッサージ店で現実化しているのを見て信仰を捨てるイスラム教徒とかも滑稽だし、その滑稽さが主人公の「彼女を殺したイスラム教徒への憎しみ」を失わせたというのもわからんでもない。シャルリ・エブドはそういうことをしたかったんだろうか。

 本当のことを言ってはいけないという空気は、日本以上に西洋社会では強い。そんな社会で、こういった「真実」をなかばカリカチュアのように過激に描き出す小説は、たしかに必要なのかもしれない。けれどまあ、判断力のない子供に与えていいおもちゃでもない。この小説のタイトルのプラットフォームっていうのは、セックス・ツアーのためのプラットフォームづくりを指しているのだろうが、それと同時にこのとんでもなくスキャンダラスな小説が批判の対象、土台として機能するということをも示しているのだろう。