ウエルベックの『服従』を読むのは少なくとも三回目

 

 

 

 

以前(2015年)は、ウエルベックをあまり知らずに(『素粒子』とかは読んでいたけど)、予測小説として(オーウェルの『1984年』みたいに)読んでいたようだ。

 物語は2022年5月のフランス大統領選挙から始まる。皆さんもご存知のように、この間の日曜日に現実世界でもついに仏大統領選の第一回投票が行われ、予想通り一位マクロン、二位マリーヌ・ル・ペンとなり、二週間後の決選投票へと向かう。

 物語内では、一位マリーヌ・ル・ペンで、二位となったのは壮絶なデッドヒートを制してまさかのイスラーム同胞党、社会党は決選投票に進めなかった(現実社会では、社会党は20パーセントどころか数%で、共和党とともに、かつての二大政党は泡沫候補みたいに消えていったのだ。現実の方が面白そうだ)。

 

さて、そんなことはどうでもいい。実際には、この『服従』という小説では、フランスの政治動向を予測したり、イスラームによる支配を危惧したりということは問題ではないからだ(だから何度もいうが、佐藤優の「解説」は二重で間違っている)。ウエルベックは挑発的で露悪趣味で、女性蔑視、人種差別ギリギリの文章を書いて、「え? これ批判として書いているんですよ、そんなことも分からないですか?」として楽しんでいそうな意地の悪さを感じるが、ともかくとして、『服従』におけるフランスのイスラムへの服従っていうのはそういうキャッチーな「つかみ」でしかないのだ。『プラットフォーム』ではそれがタイへのセックス旅行だし、『ある島の可能性』とかではセクト教団への入信だ。

 つまり、ウエルベックはずっと同じ物語を、スパイスを変えて繰り返しているだけなのだ。それは『闘争領域の拡大』で完全に説明されているから繰り返すこともないだろう。ウエルベックは、個人主義が蔓延し、資本主義的競争原理が恋愛にまで浸透した現代西洋社会における、白人中年男性の幸福追求の不可能性を語り続けている。幸せになるために、彼らはまずは「一般的」な解決策に頼る、娼婦を試してみたり、乱行パーティーに行ったり、南洋のビーチで裸の女性の隣に座ったり・・・、でも大抵失敗する(成功するのもいる)。

そんな彼らは、最後には突拍子もない行動に出る。宇宙人からのコンタクトを待つエロヒム教団に入団して11歳の少女を愛撫したり、しっかりと規格化された売春パッケージツアーを販売したり・・・、彼らは「幸福」を感じる。読者はからかわれているのだろうと思うだろう。でも、結構微妙なところで、ある程度本気で「そこまでしないと白人男性の幸福は無理だよなあ」って思っているっぽいのだ。

 で、今回はそれが「イスラム教への改宗」なのだが、これはおそらく構想としては二段階あったのだ。そもそも主人公がユイスマンスの専門家であることから、当初この小説では「カトリックへの回心」が問題になっていたことが想像される。社会的紐帯を失っていることがウエルベックの登場人物の不幸の原因だから、何らかの宗教的団体への帰依は(それを信じていなくとも)、常に可能性としては想定されている。ところが、主人公フランソワはそれに二度も失敗する。一度目はロカマドールの黒い聖母の前で、二度目は修道院で二泊三日の滞在で(タバコを吸えないことが辛すぎて切り上げた)。

 そしてフランソワは最後には、仕事(イスラム教に改宗すればソルボンヌ大学の教授に高額で復職できる)と女(学部長自ら斡旋してくれる)に惹かれて、イスラム教に改宗し「幸福」になるだろうと示唆されている。

 

 『プラットフォーム』の結末が示しているように、ウエルベックはそのような「極端な手段による幸福」を全く信じていないはずだ。それは「こんな極端なことでもしない限り、僕らの不幸は癒せないんだぜ」ってことであり、実際にそうすることは不可能だし、出来たとしてもそれは実際には別の不幸だろう(エロヒム教団でニコニコと少女を愛撫したおじちゃんは牢獄に行った)。

 

 ウエルベックの日本受容の不幸は、そういう文脈が完全に度外視されて、極めて表面的に字義通りに読まれていることだろう。西洋の没落、新自由主義的社会の地獄、ドナルド・トランプ的家父長政復活の欲望・・・。隣の不幸は蜜の味的に読まれるのに加え、小説の読者として主人公と自己同一化していき(白人中年男性)、その優越感(特に現地人や女性に対する)を、かなり素朴に受け止めてしまいがちなところがある。

 ただ、結局のところ、『服従』は読み直してみると、かなり単純な小説で、物語としての面白さのほとんどはスキャンダラスな設定にあるのだなと思った。他のウエルベックの主人公にあるような苦しみが、共感できる人間の弱さが、フランソワには欠けているようにも思う(フランソワは完全に利害だけでイスラームへの改宗を決める(だろう)のだ。彼は幾度か、心からの回心(カトリックへの)を求めたが自分にはそれが不可能だと理解する。それ以後、彼はもう悩むのをやめたのだろう。彼はもはや人間ではなく、欲望のままに動く動物だ。そのひけらかされた薄っぺらさこそが、彼の弱さなのだろうが・・・)。