偶々右仲さんに関する資料の検索&閲覧をしていたところ、過去2度に渡って取り上げた田健治郎さんについて書かれているものを見つけたので、備忘録も兼ねて紹介しようと思います。
以前の記事については
↑のリンク先をご覧ください。
『警察物語』(杉村幹、日本出版、昭和十七年十月十五日発行)から、右仲さんの記述がある所を中心に以下に引用したいと思います。
「天下の警部長として、大浦兼武とその名を等しくした者に田健治郎がある。
田<健治郎>は安政二年二月八日を以て、但馬國氷上郡下小倉村に生れた。家は代々柏原藩の里正である。稍長じて篠山藩儒渡邊弗措の門に入った。弗措は朱子學者で、但馬宿南の池田草庵や、田<健治郎>の生れた柏原の小島省齋と並び稱せられた鴻儒であつた。
慶應元年、弗措が藩主に隨つて江戸に出づるに及び、田<健治郎>は弗措に請ふて其行を共にした。明治元年歸藩後は、更に小島省齋に就いて經學を修めた。
<中略>
田<健治郎>が村學の事務員に身を起して、臺閣に翔翺するやうになつたのは、ちやうど大浦<兼武>が邏卒小頭から發足して、出世街道を驀進したのと其揆を一にする。
大浦<兼武>の場合に山縣<有朋>が後立であつた如くに、田<健治郎>の場合の引立役は、果して誰であつたのか。
私<=杉村幹>はこれに對して、大野右仲、田邊輝實、後藤象二郎の三人の名を擧げることが出來る。
田<健治郎>は明治四年に、但馬和田山の太田太右衞門なる者の養子に爲つた。そのころ豐岡縣の權參事の大野右仲が、管内を巡視して和田山に來り、太田の家に泊つた。飛ぶ鳥を落すが如き權勢の權參事の前には、村民一同平蜘蛛のやうに頭を低れてゐたが、獨(ひとり)田<健治郎>のみは、大野<右仲>を相手に臆面もなく政治を論じ時勢を評した。
田<健治郎>靑年の意氣を壯とした大野<右仲>は、君<=田健治郎>の如き有爲の才は、こんな草深い田舍にクスブラずに、一日も早く東京に出て、立身出世の糸口を見付けるがいゝと勵ました。
田<健治郎>が養家<=太田家>を去つて舊姓<=田>に復し、志を立てゝ郷里を去つたのは、偏に大野<右仲>の鼓舞激勵に基くのだ。」
田さんが世に出る前後の話に関しては上記リンク先の記事にて取り上げているので今回は省きますが、注目したいのは右仲さんが田さんへの激励の言葉。
ここでは「田舎で燻ってしまうのは勿体ないから一日も早く東京に出て立身出世の糸口を見つけなよ!」と他の記述に比べてより具体的になっています。
明治七年、田さんは故郷の先輩であり同じ小島省斎の門下であった津田要が権参事を勤め、田邊輝實(田辺輝実)が七等出仕していた熊谷縣を尋ね、七月に等外出仕に採用されることになります。
右仲さんに言われた通り上京して立身出世の糸口を掴んだのですね。
(なお同書では田邊さんが旧篠山藩の重臣であるとしていますが、篠山ではなく柏原の出身です。)
その後田さんは津田さん、田邊さんが辞表を提出するとその進退を共にしています。
田さんは熊谷縣時代に田邊家の書生となったようで、以後田邊さんが愛知縣に転じた時には田さんも同縣に連れて行かれ、また田邊さんが高知縣に移動すると同縣に採用されたそうです。
彼が活躍することができたのはそれを支えてくれた頼もしい先輩がいたからなのですね。