田兄弟と右仲さん・補足 | 興宗雑録

興宗雑録

大野右仲に関する様々なネタを取り上げていくブログ。
大好物は北夷島。
※断りのないブログ内容の転載等はその一部、全文に関わらず一切おやめください。
解釈は人によって変わるものですので孫引き等でなくご自身で直接史料にあたられることをお勧めします※

昨年の右仲さんの命日の際に話題にした田兄弟と右仲さんに関してですが、その後別の書籍にて更に詳細に書かれているものを見つけましたのでそのことについてお話しようと思います。

 

 

なお、昨年の記事についてはコチラ↓

をご覧ください。
 
 
今回紹介するのは昭和7年に発行された『田健治郎傳』(田健治郎傳記編纂會・編、田健治郎傳記編纂會)という健治郎の伝記。
 
「第一章 家系と幼年時代 六、太田家との緣組」に健治郎が養子に入った太田家のことや右仲さんについての記述があるので、以下に引用します。
 
 
「 慈母の庭訓と、良師の薫陶とは、兩つながら其の宜しきを得て、健治郎氏の天才は一層發揮し、齡弱冠の頃には既に史記通鑒するの程度となつた。されば四方から養子に貰ひ受けたしとの申込み多く、就中但馬和田山の太田太右衞門といふは、近郷に聞ゆる素封家であるが、不幸にして後嗣とすべき男兒なく、健治郎氏が近郷稀なる秀才なりと傳へ聞き、屡々懇望する所があつた。田家では、藩侯<=織田>の内達もあり、體良く之を斷つて居たが、廢藩置縣となり、緣談の拘束も解けたので、兩家相談の上、明治四年十一月出でゝ太田家の養子となり、但馬和田山の里に引取られた。健治郎氏は時に十七歳であつた。
 太田家には一人の娘があつたけれども未だ十歳の少女で、婚期猶遠く、許嫁といふも唯名ばかりであつた。養家は資産裕かに田畑も多く、大勢の作男を抱へ、何不自由なき身分で、養父母の健治郎氏に對する態度は、頗る懇切であつて、厚遇到らざる無き有樣であつた。當時山奧の和田山地方には、文学を解するものとては殆んど無く、健治郎氏は蛟龍淵に濳むの憾なきを得なかつたであらう。」
 
 
ここでは健治郎が養子に入った時期や養子先の太田家のことについて詳しく書かれています。
 
 
ちなみに以前紹介した『伊藤痴遊全集 續第八巻』(伊藤仁太郎、平凡社、昭和六年十月二十五日発行)では、❝太田太左衛門❞となっていましたが、やはり❝太右衛門❞が正しいようですね。
 
 
多くの家から養子に貰いたいとの話が出る程健治郎が非常に優れた人物であったことは、これより前の記述に「柏原藩は明治維新の際率先して官軍となり山陰道鎭撫の先導を勤めたるに依り、<中略>有爲の人々を拔き去られたる織田侯は、轉た人才の寂寥を感じ、田家に内達して「健治郎緣談の儀は一應伺の上にあらざれば取極めざる樣に致すべし」との誡告を發した。此一事を以てしても如何に其の將來を嘱望されたかを知ることが出來る。」とあることからもわかります。
 
 
太田家の養子となった健治郎はその後和田山にやってきた右仲さんと出会います。
 
明治六年の頃、豐岡縣の權參事大野右仲氏が、管内を巡視して和田山に來り、太田家に投宿するや、當時權參事といへば、飛ぶ鳥をも落す位の權威があつたから、村民達は唯低頭平身の姿であつたが、健治郎氏のみは毫も臆する色なく其の席に出でゝ時勢を談じ政治を論じた。此の大野といふ人は唐津藩の出身で五稜廓に立て籠つて奮鬪した氣骨稜々たる志士で生き殘りの佐幕派中から拔擢して權參事に登用されたる程の人物であるが、深く健治郎氏の前途を想ひ備さに時勢の變遷を語り、斯る片田舍に閑居して、空しく雄飛の機會を逸するが如きことあらば、終生落後の人たるを免れざるべしと、切りに其の奮起を促した。健治郎氏も心竊かに東遊を期して居つた際であるから、益々其の志を固め、玆に養家を去るの決心をなし、太右衛門氏に向ひて其の志を語つたが、太田家では仲々承諾せず、愈々其の待遇を懇篤にして、引留策を講じた。其の年十一月二十九日、豐岡縣より健治郎氏に對して第五大區第一小區六番支校事務係を命ずとの辭令が下つた。これが維新後初めて小學校を地方に設立した手始めであつて、事務係といふも、實際は學務掛兼敎師を命ぜられたのである。恁くて和田山小學校は健治郎氏に依りて開校されたものであるが、東遊の志制し難く十二月二十五日、長文の意見書を作つて、福知山支廳典事の職に就ける兄艇吉氏に送り、切に太田家との離緣を要求した。」
 
 
低頭平身して迎える村民の中で、健治郎だけは全く臆することなく右仲さんと相対し時勢や政治のことについて話し、これに感じ入った右仲さんは田舎に埋もれたまま活躍できる機会を失ってしまうのは勿体ないとその奮起を促したといいます。
 
元々自分一人の腕で世に出たいという願望を持っていた健治郎は、これによりますます志を固め太田家を離れる決心をします。
 
 
 
ここで注目したいのが「此の大野といふ人は唐津藩の出身で五稜廓(郭)に立て籠つて奮鬪した氣骨稜々たる志士で生き殘りの佐幕派中から拔擢して權參事に登用されたる程の人物」という記述。
「気骨稜稜」とは❝自分の信念を守り他に屈せず貫き通そうとすること❞とのことで、彼の戒名の一部である「内剛」にも通ずるなとも思ったり。

 

 
ちなみに右仲さんが訪れたのは明治六年の頃とされており、以前の記事と比較しても当時豊岡の県令が不在であったことや兄の艇吉が福知山の支庁に勤めていた時期とも一致しますね。
 
 
 
弟から養家との離縁話を聞いた兄・艇吉は非常に驚きこれを諫めましたが健治郎の決心が固いことを知り、ひとまず母に相談することになりました。
 
 
「翌明治七年正月健治郎氏は籔入の機會を見て暇を貰ひ、下小倉村に歸りて、母堂に東都遊學の希望を語り、是非とも養家を離緣する樣取計ひありたしと懇願した。母堂は其の意氣に感じたけれども強ひて離緣を求むべき口實もないので、左の樣に諭した。
  「先方もお前を手放すの心はなく此方も亦先方に對して何一つ不足もないのだから、里方から離緣話を持出す譯合ひに行かぬ。之はお前がよく考へて自分で談をまとめるより外はない」
 健治郎氏は悄然として和田山に戻り。再び養父母に向つて學問修業の爲め是非とも東遊したしと懇願し、今日迄養子として引取られ、眞味の親にも勝れる深甚なる寵愛を蒙りたる御恩は終生忘れませぬが、折角習ひ覺へたる學問を、中道にして全廢することは、如何にも殘念でありますから、最早緣なきものと諦めて斷然離緣してくだされ度い。又御息女もまだ幼なき身であれば後日改めて良い御養子を迎へらゝるとも遅くはあるまいと、眞心籠めて賴んだが、太田家では仲々承知せず、親族會議を開いて相談の上、養父は隱居して家督を譲るから思ひ直して居止つて呉れとのはなしであつた。健治郎氏は素より家督に望みのある譯では無いので、之を謝絶して少しも素志を抂げない。此に於て親戚中の有力者なる日下安左衞門といふ人が暫く健治郎氏を預つて能く説き聞かすべしとて粟鹿村に伴ひ歸つた。健治郎氏は日下家に預けられた後も初志を辭さず、或る日同村の當勝神社に詣で神明に誓を立てゝ東遊を祈願し、拜殿の板壁に『丈夫決志出郷關、業若不成死不還』と大書して決心の程を示した。これは漢の司馬相如が昇仙橋の袂に『若不乘駟車誓不復過此處』と題したる古事にも似て其の意氣寔に欽すべきである。日下家でも遂に其の志動かすべからざるを看取して、太田家に斷念せしめ、贈るに秘藏せる大小二口の刀劔を以てし、遂に其の離緣を許した。健治郎氏は實家に歸り、母堂に對して向後は特立獨行身を立て學を修め、少しも金錢上の援助を求めない決心であることを誓ひ、住み馴れたる我が家を後に、飄然として東遊の途に上つた。」
 
母は健治郎の覚悟を知り感じ入ったものの、家としても断るべき理由はないのだから自身で解決するよう伝えます。
 
健治郎は和田山へと戻り養父母に対して自分の想いを伝えるものの、やはり太田家の方は了承することができず親族会議にまで発展したそうです。
 
そして親戚中の有力者である日下家で暫く預かることとなりますが、それでも健治郎の意志は変わらないことを見て取り、ついに離縁を許されることになりました。
 
 
なお、太田家を去ったのは同書巻末に収録されている年譜によれば同年(明治七年)の五月で、東上の途に就いたのは六月十日のことだそうです。
 
 
「斯くて太田家とは一旦關係を絶つたけれども、後年太田家の息女が死亡したる後、其の婿養子の後妻として妹愼女を嫁せしめ兩家は此に再び親類關係を結ぶに至つた。」
 
 
以前の記事で紹介した『人事興信録』第5版(人事興信所・編、人事興信所、大正七年九月十五日発行)田艇吉の項目に「妹しん(同<安政>五、一生)は同<兵庫>縣人太田太右衞門に嫁し」とありますが、上記の記述により妹・しん(愼)が嫁いだのは健治郎が離縁した後太田家に婿養子として入った太右衞門だったことがわかります。
 
 
健治郎はその後明治七年に熊谷縣に出仕したのを皮切りに八年愛知縣出仕、九年司法省出仕、十五年高知縣警部長、十六年神奈川縣警部長、二十一年埼玉縣警部長、二十三年逓信書記官、二十六年郵務局長、同年通信局長、三十年電務局長、三十一年逓信次官兼鉄道局長をつとめ、同年依願免本官。
同年十二月に関西鐵道株式會社社長、三十三年逓信総務長官、三十四年衆議院議員、三十六年逓信総務長官、同年逓信次官、三十九年貴族院議員、四十年男爵、同年九州炭礦汽船株式會社社長、大正五年逓信大臣、八年臺灣總督、十二年農商務大臣、十五年枢密顧問官などをつとめ、昭和五年十一月十六日に亡くなったそうです。
 
右仲さんの激励をきっかけに行動に移した結果、このような人生を送ったのだと思うと何だかすごいな、と思う次第です。
右仲さんの人を見る目は優れていたんだなぁとしみじみ思いました。