小笠原胖之助のこと・其の参 | 興宗雑録

興宗雑録

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少し間があきましたが前回の続きです。

 

 

旧幕府軍はいよいよ蝦夷地・鷲ノ木に到着。

十月二十二日より大鳥圭介率いる本道軍と土方歳三率いる間道軍の二手に分かれて箱館を目指します。

 

「此所より荷物汽船に便乘して北航し凾館の北方駒ヶ嶽の北岸鷲の木に到着して上陸し其れより森驛に至つた。此地には曩に榎本の率ゐたる數隻の軍艦にて渡來せる幕兵の一部滯陣し中に唐津藩の脱兵團あり。公子の一行は漸く之に合することを得た。若松退去以來此間の公子の御勞苦は實に多大であつたのである。此地にては一度敵の夜襲を受けたが擊退し間もなく二手となつて進軍し一方は大野に向ひ一方公子の屬する幕軍は七重に向つた。七重の滯陣は五日間にて其の間二日間交戰あり。其の最後の日には戰勝幕軍に歸したが歸陣の後人員を檢するに公子在らず。茲に於て乎始て驚愕し遽かに手を分つて百方捜索するに意外にも戰場より深く進んで敵地であつた所にて無殘なる戰死の御遺體を發見した。千恨萬悔も何の益なし。噫、其の致命傷は銃丸のためなるも最も悲慘なるは七箇所の刀創であつた。佩刀は敵の奪ふ所となつて見えざるも後に至り我手に戾つた。之を見て驚くに堪へたるは所々に大小の損傷あり是が皆刀痕であつたことである以て如何に勇敢にも敵と刃を交えて奮鬪せられたる乎其の迹が歷然として遺つて居る此佩刀は多賀右金治後に半藏と改名したる藩臣の愛刀にして嘗て公子に献じたるたるものである。

 明治戊辰の戰に於て東西兩軍の戰死者之を鳥羽伏見の初より算ふれば驚くべき數に上らん。然れども靑年十七歳の而も貴公子にして單身進んで敵と決鬪し竟に之に斃れたる公子の如きは蓋し他に其比儔を見ざるのである。噫、復た何をか言はん。哀しい哉。

 七重の役に公子より離れたる所にて小久保淸吉も戰死した。小久保は公子が幼時奥殿より出て藩邸の別館に移られた時より從屬し多年忠實に勤續したる藩臣であつた。故に同人の戰死は自ら公子に殉じたるものと見られる。皆之を以て聊か慰むる所があつた。」

(『復活第壹號 久敬社誌 創立第四十九周年紀念式號』 折尾伊勢太・編輯、財團法人久敬社 昭和3年発行 所収 「故小笠原胖之助公子の御事蹟」曾禰達藏)

 

 

進軍とは別に嘆願書を携えた人見勝太郎、大川正次郎らの先遣隊が峠下において宿営中、新政府軍から奇襲を受けてこれを撃退。

急を聞きつけた本道軍がかけつけ、大野方面と七重方面の二手に分かれて戦うことに。

 

プリンスのいた七重村では5日間の滞陣で2日間の交戦があり激戦となりましたが旧幕府軍が勝利。

帰陣後人員の確認をした際にプリンスの姿が見当たらず驚き慌てて探すと、敵地であった場所に遺骸があったそうです。

 

その体には七箇所(九箇所との説も)の刀創と致命傷となった銃弾のあとがあったとあります。

 

そして、プリンスとは離れた場所で小久保清吉も戦死していました。

小久保はプリンスの幼い時から世話役として仕えていたといわれている人物です。

 

 

 

この時の様子を右仲さんより話を聞いた唐津藩士の堀川愼が『簿曆』(『復刻版 小笠原壱岐守長行 別名「明山公遺績」』 土筆社、昭和59年発行 所収)に次のように記しています。

 

「去二十四日於七重村遊擊隊桑<名>藩我兵二十三士隊。合八十計本道、間道に別れ進みしに、官軍三百計り道を取敷甚だ苦戰なりし由、三好公子<=小笠原胖之助>には松川<=大野右仲>よりも兼て申上げ一番跡へ御据申上しに、劇戰に相成しより御附申譯にも不相成、其内に御決心と相見え、トンビ、胴服、長沓等脱棄て御切込被遊、敵は慥に御打留の由、御疵胸下に一丸、御頭、御肩、御腰に刀瘡有之候由、且つ小久保清吉、是は追討の節胸板被打即死の由、其他首疵、高野十郎五郎の誤、是は二十三士の中にあらず、舊幕臣にして、彰義隊の殘黨なり。奧州へ脱し來りし後は我が脱藩士と行動を共にせり。肩疵、明石覺四郎、股疵、田山文吉、同斷、大西源八、死傷合わせて六人、我隊許如御由、駟不及舌譯には有之共、殘恨不少。

抑德川氏囘復の一端に被盡候千載共不朽、亦唯臣子之分不可忍情不堪涙御法名御墓所等記跡。右は凾館着運上所奉行所を稱す。へ取合、開陽宿にて晝支度 新撰組旅宿御本陣へ行き、松川<=大野右仲>より委細承り、種々馳走に相成、其内に成瀬君も昨朝鷲の木出立の由にて着す。」

 

右仲さん達はプリンスを前線に出さないよう一番後にと配慮していましたが激戦となればそうもいってられず、プリンスはこの戦いでトンビ胴服、長沓等を脱ぎ捨てて斬り込んでいったそうです。

そして遺骸には胸下に銃弾、頭、肩、腰などに刀創があったそうで、その奮戦ぶりがうかがえます。

 

共に箱館戦争に参加した唐津藩士の佐久間銀次郎(後の退三)が後年「無口ながらも意志が強く物事にひるまない人だった」とプリンスについて語っていますが、まさにそれを体現していると言えます。

 

 

小久保清吉は胸板を撃たれて即死、その他高野五郎が首、明石覚四郎が肩、田山文吉と大西源八が股に疵を受け、死傷合わせて6人いたそうです。

 

 

「言葉は慎むべきだが恨みが残る」との記述から堀川がプリンスの死を受け、悲しみにくれる様子がヒシヒシと伝わってきます。

 

 

同書に

 

「<前略>胖樣御法號如左。

   慶應四年戊辰

 新圓館三好院殿儀山良忠大居士

   十月二十四日

   年號同前

 歸館誠心院忠山道孝居士

   月日同前戰死

右は小久保淸吉の戒名なり。都て七重村寶林庵と申寺地二間四方御買切り、又御改葬の事も證文取置き且つ村中へも施し等有之、右は凾館より四里程東北の方に當り、大野と申す村の近邊なり」

 

とあり、七重村にある宝林庵の土地二間四方を購入し、そこにプリンスや小久保清吉の遺骸を埋葬したとあります。

 

 

 

なお、法号については『峠下ヨリ戦争之記』山本登長(『箱館戦争史料集』須藤隆山・編、新人物往来社、1996年8月15日発行 所収)では

 

「 偖又、十一月二十三日より同二十五日迄、七重村宝林庵にて去月二十四日戦争の節死亡人相集め、右宝林庵境内に葬り供養塔を建て、大施餓鬼執行是ありける。人数分らず候得ども、俗名年等相知れ候わば、夫々塚を建て其余わからざる分は、一穴に葬しけるとなり。

    法名に曰

 三好院殿儀山良忠大居士   三好胖君 寿辰 十七歳

 誠心院忠山道孝居士      三好胖君臣

                    小久保清吉

 杉林院殿直応高忠大居士 遊撃隊

                   杉田金次郎直忠  辰二十歳

 放光院秋山一夢居士     千人隊

                   秋山幸太郎定勝

 儀孝勇智居士         小松清次郎

 忠愛感孝信士         神奈川隊

                   鮫島辰三 三十一歳

 忠屋傍孝信士         中村幸六郎 三十七歳

 悲法心孝信士         官軍方

                   北上直次

 忠感儀孝信士         谷十次郎

 忠道懐孝信士         備前福山隊

                   大嶋岩太郎

 忠昭専孝信士

 忠峰儀孝信士

 忠岩清孝信士

 右三人のものは姓名幷に年等もわからず死骸のみ是あるに付き、宝林庵楳菴これを葬る。

 右は十月二十四日七重村田ケ原にて徳川家脱藩の士、官軍と戦争に及び、討死の族、数多これ有り候得共、名前歳等相分り候分、宝林庵境内に葬り、十一月二十四日大施餓鬼執行仕り候に付き、此段御届け申上げ奉り候、                                       以上。

 明治元戊辰年十一月二十五日

               七重村宝林庵楳菴(花押)」

 

とあり、実際にはこちらの三好院殿儀山良忠大居士、誠心院忠山道孝居士であったようです。

 

 

 

その後、長行様達が五稜郭に移るまでの間、堀川愼はプリンスの墓前に立ち寄りお参りしています。

 

「<前略・十一月八日>七重村にて三右衛門方へ立寄り、主人案内にて寶林院へ行き、三好院殿御靈標へ參詣、香料百疋を收む。住持にも逢ひ終に三右衞門方へ泊す。」

 

「同<十一月>十四日、朝御出立、昨日の通り馬七疋にて御三公樣<松平定敬・板倉勝静・小笠原長行>御馬上、自分は七重に御先番に參り、三左衞門方へ立寄たり。今日は三好院樣三七日に付、團子めし抔備へたり。夫より寺へ參り夫々支度致し置き、午前御着に相成、御靈拜相濟み寺にて御酒抔さし出たり。<後略>」

(『復刻版 小笠原壱岐守長行 別名「明山公遺績」』 土筆社、昭和59年発行 所収 『簿曆』 堀川愼)

   

そしていよいよ五稜郭へと出立する前日、宝林庵で三十七日の法要をしたとあります。

 

 

この時のことは『夢のかごと』(『復刻版 小笠原壱岐守長行 別名「明山公遺績」』 土筆社、昭和59年発行 所収)に

 

「七重といふ村を過るに、おのれがいろと<弟>の、いぬる<死ぬ>かんな月の末の四日<十月二十四日>の日、たゝかひにこゝにて討死したるを、寶林庵てふ寺に送りたると聞くものから、そがおきつきにまうでしに、懷舊の涙とゞめあへず、名殘のいとをしまれけれど、さてあるべき事ならねば、逶々としてたち去りつゝ、日くれはつる頃、五稜廓の城のほとりになんたどりつきぬる。」

 

とプリンスの墓前で悲しみにくれ涙を流す長行様の様子が記されています。

 

実の弟のように慈しみ見守っていたプリンスの死に、長行様の悲しみはいかばかりであったでしょうか。

これを読み返す度に涙があふれてきます。

 

 

 

ちなみにプリンスの奪われた刀についてですが、箱館の劇場で芝居見学をしていた山際平三郎がプリンスの刀を差した農兵を発見し、取り返したのだそう。

後に小笠原家から近松寺へと寄贈されたそうですが、残念ながら現在は所在不明となっているようです。

 

 

プリンスの遺骨はその後明治6年に宝林庵から唐津の近松寺へと改葬され、そのお墓の近くには戊辰戦争時に途中まで行を共にしていた曽禰さんの奉納した灯籠が寄り添うようにたっています。