田兄弟と右仲さん | 興宗雑録

興宗雑録

大野右仲に関する様々なネタを取り上げていくブログ。
大好物は北夷島。
※断りのないブログ内容の転載等はその一部、全文に関わらず一切おやめください。
解釈は人によって変わるものですので孫引き等でなくご自身で直接史料にあたられることをお勧めします※

本日6月11日は右仲さんの命日。

明治44(1911)年に亡くなっているので、今年は没後110年に当たります。

 

今回は同時代人による右仲さんのお話を。

 

 

 

『伊藤痴遊全集 續第八巻』(伊藤仁太郎、平凡社、昭和六年十月二十五日発行)に収録されている田健治郎の話の中に右仲さんについての記述があります。

 

 

それを語り残したのは健治郎の兄である田艇吉。

 

田家は田村将軍(坂上田村麻呂)の後裔にあたり、天正の頃主(織田信包)に従い丹波国柏原(現在の兵庫県丹波市)に移り住んだそうです。

そんな田家に兄・艇吉は嘉永五年九月六日に、弟・健治郎は安政二年二月八日に生まれました。

 

明治四年十一月二日、兄弟の故郷である柏原は第一次府県統合により豊岡県の管轄となります。

そう、右仲さんが初めて出仕した県です。

 

 

田兄弟と豊岡県についての関わりを少し長くなりますが全集より以下に引用したいと思います。

 

「<前略>私<=田艇吉>は、總領でありましたので、どうしても家に止まらなければ、なりませんでしたが、健治郎は、二男でありますので、まあ出來るだけの修業を積む、と云ふことに、なつたのであります。

其内にも、方々から、養子に懇望されましたが、健治郎は、養子などには、行きたくない、何とか、自分一人の腕で、世に立つて見たい、と云ふ希望を抱いて居りました。ところが、茲に、但馬の國の和田山に、太田太左衞門と云ふ、豪家がありまして、健治郎を、是非養子にと、懇望されました。健治郎は、氣乘りがしてゐないやうでしたが、親達の意見としては、分家して、堂々と、一戸を構へるだけの産もなく、又先方は家柄としても立派なものであるから、此際思ひ切つて、行つて呉れるのが、親への孝行である、と云ふやうなことで、健治郎も、斷り切れず、遂に意を決して、養子に行つたのであります。

其内、天下の情勢も、段々と變つて參り、明治五年には、縣政が布かれました。但馬、氷上、天田の三郡を以て、一縣となし、福知山に、支廳がありました。この支廳の長官が、三浦峰高と云ふ人でしたが、此人は、幕府の外國目附を、してゐた人で、海外の事情に明るく、思想の新しい人で、今迄役人は、士族許り、使つてゐたが、どうも、藩政時代の武士の、惡い氣質が殘つてゐて良くない。一つ平民から採用して、官民の接近を、圖るやうにしよう、と云ふことで、私にも、典事になるやうに、とのことでしたが、私は再三お斷りしましたが、是非にとのことで、遂に、斷りかねて、御奉公することになりました。集議局と云ふものを作りまして、行政上の、諮問機關とされましたが、私等も、幹事を、命ぜられたのでありました。かくいたしまして、時世も、段々、革まり、平民からでも、出世が出來、又その人材の出ることを望む、といふやうになりました。」

 

 

なお、この話にある艇吉の出仕についてですが、先日の記事でも紹介した『人事興信録』第5版(人事興信所・編、人事興信所、大正七年九月十五日発行)の田艇吉の項目に

「<前略>豐岡縣屬官となり同縣福知山支廳に勤務」

と記されています。

 

また、国立公文書館「兵庫県史料 豊岡県史 政治之部 官員履歴(明治4-8年)」に

「豊岡縣平民  田 艇吉

明治六年一月廿八日 一 等外四等出仕 

という記述があり、明治六年一月に出仕したことがわかります。

 

ちなみに艇吉を誘った三浦は同上の「兵庫県史料」に

「静岡縣士族 三浦峯高

明治五年三月廿三日 一 任權典事  同年六月十二日 一 任典事  同六年八月廿日 一 任大属」

とあり、艇吉が出仕した時には典事の役職であったことがわかります。


 

そして、弟・健治郎と右仲さんとの邂逅について再び全集より。

 

「但馬の豐岡の縣令が、小松彰と云ふ人でありましたが、此縣令が、中々赴任して來ない。それで、參事の田中光儀といふ人が、縣令代理を、して居りました。其下役に、大野右仲と云ふ人が、ありましたが、此人は、田中氏の傲慢なのに引き代へて、非常に、質實な人でありまして、田中氏とは意見も合はなかつたやうですが、地方に出張しても、具に民情を調査し、一般人民の希望も聞くと云ふやり方でありました。この大野氏が縣下の巡視に出まして、一度和田山に至り、前に申しました太田太左衞門方に宿泊されたことがありました。其時分、役人が出張いたしますと、必ず地方の豪家に泊まつたものです。當時、健治郎は既に同家に養子となつて居りましたが、斷り切れずに、かうして養子に來たものの、何とかして世の中に出たい、志を立てたいと云ふ氣持ちが去らなかつたものですから、丁度、縣役人の大野氏が家に滯在してゐるのを幸ひ、同氏について政治のことや、世の中の各般の狀勢を聞き、又自分の所懐をも述べて、大いに議論を戰はしたのであります。大野氏も健治郎が若いに似合はず、天下の形勢をよく洞察して居り、その論ずる所の明確なるに驚きまして、斯る靑年を田舍に置くのは惜しい。靑雲の志抱く者、宜しく決するところなるべからず、と大いに激勵したものであります。此處で愈々健治郎も、意を決したものと見えます。斯く決心した以上、世の中へ出て充分に修業し、活動するにはどうしても身一つにならねばならない。然し養家のこと、日夕下へも置かぬ養父母の慈愛を考へれば、離緣話を持出すことがどうして出來よう。然し、今は躊躇すべき時でない。養家には娘がありまして、行く行くは夫婦になることになつてゐたのですが、まだ其時は結婚してゐなかつたので、今の内ならばどちらも瑕が附かずに済む、そこで愈々健治郎は養家を去る決心をしたのであります。」

 

右仲さんがどんな人物であったのか、どんな風に豊岡県の人達と接していたのかがうかがえます。

 

田中氏は傲慢(おごり高ぶって人を見下すこと)で、右仲さんは質実(飾りけがなく真面目なこと。質朴で誠実なこと)な人・・・前に少し触れた天橋義塾設立時の話を見ても頷けるような気が・・・汗

(天橋義塾設立時のことについてはコチラのブログ↓で少し触れています。)

 

 

そういえば以前、唐津でのトークショーで右仲さんは豊岡で“農民とも膝を交えて訴えに耳を傾けるという姿勢を有していた”なんてお話を拝聴しましたが、これを見ると頷けますね。

 

一般人民の希望も聞くというやり方が、ひょっとしたら検稲一件(※)のような風評を生み出してしまうきっかけになってしまったのかなぁ・・・とも思ったり。

 

(※「検稲一件とは、明治五年の検稲に、田中は八月二十九日から九月十九日にかけ但馬・丹後六五ヶ村に出張し、大野は丹波の村々を担当したが、大野は検稲先の村々で毎夕区・戸長と同席して酒食し、租税の税率を格別引下げしているとの風評が田中の耳に入った。同県中で租税に不公平があっては不都合と考えた田中は急遽、大野の出張先徳光村に駈けつけて、私恩を売って租税を過減すべきでなく検稲出立前打合わせの通り精々尽力するように大野に注意するという出来事があった。」(『豊岡市史 下巻』 豊岡市史編集委員会・編、 豊岡市、 昭和62年発行))

 

 

ちなみに艇吉は“縣令の小松彰が中々赴任して来ない”と語っていますが、小松は明治五年十月二日に大外史に任じられて豊岡を去っており、その後権令に任命された林茂平も在任期間が明治五年十月十七日~十一月二十八日でどちらも艇吉の出仕の前年のこと。

しばらく間を置いて明治六年一月十五日に桂久武が権令に任命されるも病のため赴任できないとこれを辞退(六月十四日に免官)していることから、時期的にも桂のことだったのではないかと思われます。

 

 

右仲さんと実際に話すことで、健治郎は“自分一人の腕で世に出たい”というかねてからの願望をより強くし、養家を去ることを決心したといいます。

 

 

三度全集より引用↓。

「當時、私は福知山に居りましたが、健治郎から此事を云つて來たので吃驚いたしました。私は若い者の早まつた考へであると思ひまして、極力諫めましたが、決心は餘程確いやうであります。そこで一充づ柏原に居ります母の許へ相談いたしましたが、家としても斷るべき理由がない。又家に歸つて來た所で財産もなし、分家しても充分なことは出來ないのだから、成る可く辛抱するやうにと云つたのですが、健治郎は勿論分家して財産を分けて貰ふ等と云ふ考へは毛頭ないと云ふことでありましたので、それだけの覺悟があるなれば、自分の意思通りにしたが好いだらう。然し、家とて斷る理由がないのだから、本人自身で問題を解決して來なくては困る。それが出來るならば家としては別に異議はないと云ふことになりました。そこで健治郎は、養父太田太左衞門氏に對し、自分の考へを率直に述べて、離緣の件を訴へました所、太田氏は轉倒せんばかりに驚かれ、何か氣に喰はないことでもあるか、私はそれでは卽刻隠居して、お前に家を譲らうとまで云はれましたが、健治郎は、いや何の私に不平抔ありませう、毎日斯うして大切にして戴くことを、どんなに有難く思つてゐるか知れません。然し、私はどうしても世の中へ一本立で出ようと云ふ決心を確くつけてしまひました、どうか御諦め下さるやうにと懇願いたしました所、太田氏もその熱誠が面に溢れてゐるのと、悲壯の決心の程を見て取られまして、到底最早意志を飜へすやうなことはあるまい、これは此際離緣して、本人の思ひ通りにしてやるのが、結局、健治郎を可愛がる事にもなるのだと云ふやうな御心持から將來は親戚の交際をすると云ふ條件で、離緣を承諾されることになつたのであります。<後略>」

 

 

なお、健治郎が養子解消した太田氏ですが、艇吉は“太左衞門”としているものの正しくは“太右衛門”であったようです。

 

この時健治郎は太田氏と離縁することとなりましたが、『人事興信録』の田艇吉の項に「妹しん(同<安政>五、一生)は同<兵庫>縣人太田太右衞門に嫁し」との記述があることから、まさに「将来は親戚の交際をする」という約束が果たされたことになります。

 

 

ところどころ記憶違いもあるものの、豊岡県時代の右仲さんの様子を知ることのできる貴重な話であると思います。