三井令輔 | 興宗雑録

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20日の大河ドラマに五代才助(友厚)が出てくるようですが、唐津に彼と親交をもった人物がいました。

 

その人物とは三井令輔。

 

 

どんな人物であったのかを複数の書籍より以下に引用します。

 

「 三井令輔重屋は三井家四代目の相續であり、初代は十太夫光重と稱した。本國は遠江の掛川である。

 令輔の生國が陸奥の棚倉であるのは藩主が濱松から棚倉に轉封したからである。初めは仙助と言ひ、次に甚悦、甚才、祐四郎、民之助などと變り、最後に令輔と稱するに至つたのである。

 令輔の小笠原唐津藩に於ける役目は代官、及び地方吟味役であつて大した高官ではないが、當時の世相としては重職と言ふことが出來るのである。

 その間、色々の役目は仰付かつてゐるが、唯一つ此の章最後まで必要である役目を拾つて置かう。それは元治元年八月五日石炭御手山及び賣山掛になつてゐることである。

 扨、令輔幼より藩校に學び、其の鋭才は群鶏中の一鶴と誇稱することが出來る。即、彼十六歳の筆に成る正保年間肥前高島と筑前姫島の間に現はれた黑船<中略>燒討の事情は簡要を得て、頗るの達筆である。此の一事を以てしても彼が如何に幼より非凡の才覺ありしかを窺ふことが出來やうと思ふ。」

(『幕末に於ける唐津藩の研究』植村平八郎、畠山書店、昭和八年一月二十八日発行 所収 「第二章 三井令輔 〔一〕人物點描」)

 

 

「 令輔は唐津藩の御手山方(石炭山係)でまた売山方(石炭販売係)であつた。薩州藩が唐津領相知村で石炭採掘を行うようになつて、令輔は自然同藩士五代才助(友厚)と接近し、また長崎駐在の大隈八太郎(重信)とも交を結ぶようになつた。こうした関係から令輔は新思想の人となり、壱岐守<=小笠原長行>に面接して大に進言しようとした。」

(『松浦史』吉村茂一郎、松浦史刊行会、昭和三十一年七月二十日発行 所収 「第十章 唐津藩における勤皇運動」)

 

 

さらに詳しく書かれたものがコチラ↓

 

「<前略>彼は三井家四代目の当主として奥州棚倉に生れ、藩主小笠原氏と共に唐津へ転入し、嘉永から安政年間(一八五〇代)にかけて相知地方の代官となり、また石炭御手山(藩直営の炭山)及び売掛山となって、相知方面の石炭開発に貢献したが、それ以上に重要な事は、当時、薩摩藩が海外貿易に発展するため石炭を必要とし、薩摩藩内には石炭がなかったので、それを唐津藩に求め、すでに相知方面に薩摩藩が支配する炭山があり、その詰所には薩摩藩士の波江野休衛門、池上次郎太など常駐し、職務上、三井令輔が彼等と常に接触していた事であり、その接触の中から令輔は時局に目覚め、開国、勤皇思想の影響をうけたのであった。さらに、薩摩藩内にあって、石炭を含めた商事一切の総元締をしていたのが有名な五代友厚で、彼が呼子に来た時には、直接、三井令輔に石炭の積込みを頼み、また長崎で二人はよく会っている。長崎の「たまかわ」という料亭で、五代と大隈重信が女性の事で喧嘩をした時、令輔がその間をとりなしてやったと伝えられるように、その親しさは格別であったと思われ、その思想的影響も大きかった。」

(『郷土史誌 末盧國』松浦史談会・編、芸文堂、昭和五十八年六月五日発行 所収「幕末・唐津藩の悲劇  長行に諫言して失敗  三井令輔、暗殺さる」善達司)

 

幼少より優秀な人物であったこと、その役目柄薩摩藩の五代才助(友厚)や佐賀藩の大隈八太郎(重信)らとも親交があり、思想的に影響を受けたことなどがわかります。

しかしそのことが後に悲劇を生むことに。

 

 

第二次長州征伐が失敗に終わると、唐津藩の立場は段々と危ういものになっていきます。

 

「<中略>藩主小笠原長国は長州征伐の失敗後、薩摩藩に使者を送ろうとし、米溪新助にそれを命じた。これは当時の唐津藩としては考えられない事であるが、恐らく三井令輔の諌言の影響であろうと思われ、長国自身すでに佐幕にみきりをつけてきたのである。しかし佐幕一辺倒の頑固な米溪新助は使者を拒否したので、怒った長国は彼に謹慎を命じ、新たに田上仲左衛門を薩摩に送った。これが後で浮沈の瀬戸際にあった唐津藩を救ったと思われる。

 さて、鳥羽、伏見の戦いに敗れた長行は海路江戸へ引揚げたが、慶応四年正月、薩摩藩士波江野休衛門は三井令輔に書を送り、長行が朝廷に反抗した罪も、今引退し罪を謝すれば、刑罪を免れるであろうと力説し、その実行を促したのである。この時、令輔は唐津にいたが、遂に長行への直接の諌言を決意した。このままずるずると長行が朝廷への抵抗を続ければ、唐津藩そのものが危機に頻するのである。<中略>

 この時、江戸唐津藩邸には最初から令輔に敵意をもっていた米溪派のグループがおり、長行との面接にかこつけて、令輔が主君長行を暗殺するかもしれぬとまで曲解した。慶応四年二月二十四日、この宿命の両者は唐津藩邸において激論し遂に令輔を惨殺したのである。時に五十五才であった。君臣あいまみえて時局を語り合う機会は遂にこなかったのである。」

(『同掲書』)

 

ここでは長行様が鳥羽・伏見の戦いに参加していたように記されていますが、実際には江戸にいたため誤記であるかと。

 

「<前略>守旧派は令輔を以て薩州藩士と同意して公を暗殺しようと謀るものとなし、江戸下屋敷に於て彼を殺害した。これは明治元年(一八六八)二月廿四日のことであつた」

(『松浦史』吉村茂一郎、松浦史刊行会、昭和三十一年七月二十日発行 所収 「第十章 唐津藩における勤皇運動」)

 

 

長行様を救うため、唐津から江戸へ赴き直接諫言しようとした三井でしたが、藩邸には反対派である米溪新助のグループが待ち受けていました。

 

米溪派は三井が薩摩藩士らと謀って長行様を暗殺しようとしているのではないかと疑い、激論の末三井を暗殺。

 

 

ちなみに『幕末に於ける唐津藩の研究』(植村平八郎、畠山書店、昭和八年一月二十八日発行 所収 「第二章 三井令輔 〔六〕令輔の忠勤」)によれば、
 「 此の時<令輔殺害>、令輔褞袍を着て居り抵抗の術なく、殺害の手を下したのは前場と市橋の兩名と云ふ。」

とあり、三井は寒い時期であったので褞袍を着ておりそのため抵抗することができなかったと記述しています。

 

同書によれば三井を殺害したのは六名だったとしていますが、名前の列記は憚るとして上記の前場と市橋以外は記されていません。

 

 

なお上に出てくる「米溪新助」ですが、恐らく彦作、常道を名乗った新井常保(右仲さんの実弟)の義父に当る人物だと思われます。

 

 

非業の死を遂げた三井はその後、故郷の唐津に葬られました。

 

「 唐津市十人町の来迎寺の墓地に「麗■<口の下に炎>院信誉我道勇全居士」ときざんだ一個の墓碑が立っている。<中略>この墓碑の右面に「慶応四年二月廿四日」、左面に「三井令輔重屋之塔」とある<中略>。また同じ境内地に小笠原長行が自から書いた石碑が立っている。

  祭亡臣三井令輔文

 明治辛巳某月某日小笠原長行以時羞祭於亡臣三井令輔之霊嗟汝令輔資性多才勤敏執事其死可哀顧当明治之初天下大乱於是王師東征受降討叛時汝在唐津窃恐国之陥危殆千里来見我以陳利事之所在余好其来諭汝西回而汝徘徊反速人最猜遂遭青災誠可痛哉既而皇極爰建生者倶拝天日独傷汝死不反乃揮涙奠其室嗟象有歯以焚其身汝乃有才以促其生縦使汝不惜其躰余豈莫為汝惜乎

  明治十四年十二月

       小笠原長行  識

 右の原文を読み下すと次のようになろう。

 

 亡臣三井令輔を祭るの文明治辛巳某月某日、小笠原長行、時を以て羞しくも亡臣三井令輔の霊をまつる。ああ、なんじ令輔、資性多才、勤めて執事に敏し、その死、哀れむべし、当明治之初の天下大乱を顧りみるに、是王師の東征に於て、降を受け、叛を討たるるの時、なんじ唐津にあり、窃かに国の陥危を恐れ、殆ど千里、来りて我をみ、以て利事の所在を陳ぶ、余、その来諭を好む、なんじ西回しなんじ徘徊し、かえって人の猜を速やかにし、遂に青災に遭う、誠に痛むべき哉、すでにして皇極ここに立ち、生者は倶に天日を拝す、ひとり汝の死を傷む、かえらず、乃ち涙を揮って其の室を奠す、ああ、象どるに歯あり、以てその身を焚く、なんじの有才以て其の生を促す、ほしいままに汝をして其の躰を惜まざらしむ、余、あに汝のために惜しむなからんや、

 明治十四年十二月

      小笠原長行 識す

 

 <中略>この時唐津藩にあって、いち早く時局の流れを知り、勤皇を説き、薩摩と手をくんで新時勢に対処する事を主張し、長行に諌言しようとして失敗、遂に反対派により江戸唐津藩下屋敷で惨殺されたのが三井令輔であり、長行も彼の死をいたみ、明治十四年、この慰霊の碑をたてることにより、自己の不明を詫びたのである。」

(『郷土史誌 末盧國』松浦史談会・編、芸文堂、昭和五十八年六月五日発行 所収「幕末・唐津藩の悲劇  長行に諫言して失敗  三井令輔、暗殺さる」善達司)

 

藩や国の未来を憂えた者同士でありながら意見の相違故に対立し、そして迎えてしまった悲劇に、長行様もさぞ胸を痛めたことだろうと思います。

 

 

桑名の吉村権左衛門暗殺の件といい、本来は争わなくて良い者同士が争いどちらかの命を奪うのはとても辛く悲しいことだなとひしひしと感じました。