小笠原胖之助のこと・其の壱 | 興宗雑録

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12月7日は新暦のプリンス(小笠原胖之助)の命日ということで

今回はプリンスについて曾禰達蔵が後年その事蹟について語った話を以下に紹介したいと思います。

 

 

ちなみに曾禰達蔵は『時代を拓いた唐津の先人』(宮島清一、海鳥社)によれば「嘉永五年(一八五二年)、江戸城下丸の内、大名小路の唐津藩邸に生まれた。父まさはるは藩主の傍に仕えて文筆を担当する役職(祐筆)だった。当時の唐津藩主は小笠原長国で国もとにあり、その世子(後継者)である長行が江戸にあって幕府の役人を務めていた。曾禰達蔵は小笠原長行に気に入られ、十歳の頃から長行の小姓にな」った人物であり、「長行の甥である小笠原胖之助は曾禰と同年代で、幼い頃から兄弟のように育てられた」そうです。

戊辰戦争時(当時は鈔三郎と称した)もプリンスと途中まで行動を共にしていました。

 

 

「胖之助公子は小笠原家十代の主長泰公の長子として、公隠遁の後嘉永五年藩邸の中外櫻田の上邸か若くは本鄕弓町の中邸にて出生された。初は長泰公の膝下に在て專ら侍婢に養育せられ、文久元年十二月長泰公櫻田の本邸にて逝去せられ長國公の姫君代つて其の奥殿に住せらるゝや公子は一時留て此に同居せられた。翌二年公子甫めて十一歳、出て同邸の別館に移り、茲に始て全く婦人の手を離れ從臣數人に傳育せらるゝ事となつた。蓋し是皆明山公<=小笠原長行>の指揮に出でたのである。爾來公子の教育は一に公の意思に基きたるものと察せられた。乃ち公子は此時より藩士と共に文武の道を學び、文は藩儒山田忠藏(大儒佐藤一齋の門弟)に就て經書の句讀を受け、武は擊劍を藩邸の四天流の師範格稻村助左衞門に、槍術を時々來邸指導する寶藏院流の槍術家幕臣長尾某父子に學び、而して馬術は藩の師範平岡彦左衞門に敎授された。<中略>公子は盡く之を學ばれ此の中擊劍と馬術は進歩著しかつたが馬術は最も興味を以て修業せられ其の十五六歳の頃には既に一廉の乘馬家たる技倆に達し能く悍馬を御せられた。師範平岡彦左衞門の馬術は大坪本流で當時江戸に於て名人の稱があつた程の第一流の馬術家であつた。嘗て負傷して一眼を失ひ特徴ある眼面となつたが爲めに隻眼の平岡馬先生として高名であつた。故に幕臣諸藩士の來り學ぶもの相踵ぎ夫れのみならず野性の矯正改良を請ひて悍馬駑馬を諸方より牽き來り爲めに藩邸の馬場は毎朝大いに賑つた。平岡は其中の悍馬を公子に御せしめたことは稀れではなかつた。明山公の愛馬延齡山は是亦却々の悍馬であつたが公子は自在に之を駕御せられた。以て如何に其の技倆の優れたる乎を察するに足らん。」

(『復活第壹號 久敬社誌 創立第四十九周年紀念式號』 折尾伊勢太・編輯、財團法人久敬社 昭和3年発行 所収 「故小笠原胖之助公子の御事蹟」曾禰達藏)

 

 

ここではプリンスの出生のことや彼が修めた剣術や槍術、馬術等について言及されています。

 

その中でも馬術に最も興味をもち、15、6歳の頃には一廉の乗馬家の腕前に達していたのだとか。

新選組隊士の中島登が描いた『戦友姿絵』にプリンスと共に馬が一緒に描かれたのにはこうした背景もあるのかな、なんて思ったり。

 

 

上記の他にも林大学頭の家塾に通学していたとあります。

ここでは右仲(当時は又七郎)さんの親友である葛西音彌という人物が塾長をしていたそうです。

「<前略>居ること幾ばくもなく漢學修業の爲め番場先門外八代州河岸の幕府の儒臣學齋林大學頭の家塾に通學せられた。同塾にては林家最後の塾長葛西音彌が其の指導に任じた。葛西は明山公の股肱の臣大野右仲と昌平黌在學當時よりの親友であつた。公子は此歳の秋頃より更に進んで入塾せられた。此時正に十六歳の少年である。從來一歩藩邸外に出るには必ず一人の從者を伴はれたが此時より總て公子たるの境遇を脱し純然たる一介の書生となられた。言ふ迄も無く是も亦皆明山公の思慮に基いたのである。公は公子を視ること實弟の如く、其の愛撫の至情は特に敎育に露はれた。故に公子は公に兄事して喜んで其の敎示を奉じ、他に向つては公を稱して兄と言はれて居た。」

(同掲書)

 

長行様が父亡き後のプリンスを実の弟のように可愛がったのには、自身も幼くして父を亡くしたという似たような境遇にあったからかも知れません。

そして自身も叔父・小笠原長光公に面倒を見てもらったようにプリンスの教育に心を配りました。

 

ちなみに長行様とプリンスの実父・長泰公とは義理の兄弟に当る為、長行様とプリンスは義理の叔父・甥の関係となりますが、一説によるとプリンスも長行様と同じく長国公の養子となったとする話もあるようで、2人は義理の叔父・甥でありながら義理の兄弟でもあったようです。

 

とても複雑なのですがこれには長崎警備や九州の外様大名の監視等の重要な任に当るため藩主が幼い場合は国替えしなければならないという唐津藩独自の背景がありました。

長行様の父・長昌公の時に国替えをしたばかりで再度の国替えを避けたかった小笠原家では養子を迎えることにしたですが、その時養子に入ったのがプリンスの実父に当たる長泰公でした。

 

なお、小笠原家は長泰公の後も長国公に至るまで養子が続きました。

 

 

 

長行様がプリンスを可愛がっていた様子は、長行様の日記に度々彼の名前が出てくることからも伺うことができます。

 

 

しかし穏やかな日々は終わりを告げ、彼らを戦いの渦中へと巻き込んでいきます。

 

「此歳<=慶応三年>十月德川慶喜大政を奉還し將軍職を辭し、翌年一月鳥羽伏見の戰爭となり、幕軍大敗して慶喜江戸に歸還し、上野寛永寺に屛居し、次いで水戸に退いて謹愼した。此に至つては德川の威權全く地に墜ちた。之より先官軍東下して江戸に入るの形勢となるや府内中部の地にある大小諸藩と幕臣の邸第は僅少の留守居を殘して居住者皆兵亂を豫想し近くは郊外に近き下邸若しくは緣故の地に遠くは十數里を隔てたる所領地に避難した。林家も亦家塾を閉鎖して巢鴨の別邸に移住した。公子は一先づ之に從つて同邸に移り林公の下に起臥せられた。是より先明山公は既に閣老職を辭して深川高橋の下邸に閑居せられたが幾ばくもなく此を去り唐津へ歸臥すると聲言して何れへか韜晦せられた。江戸は今や續々入來りたる官軍充滿し一方彰義隊は輪王寺宮を守護すると稱して上野に割據し、形勢甚た不穩であつた。諸藩佐幕派の脱走來投する者少なからず。而して胖之助公子もいつしか林家を脱出して寛永寺中三十六坊の一なる等覺院に潜匿せられたが同時に我唐津藩邸脱走の壯士か來て守護した。初は三人終りには總員九人となつた。是明山公の随從者中二三の首腦者と氣脈を通ずる藩邸に居殘る所の老功策士の秘密の画策と幕臣河野大五郎等の援助に依つて行はれたのである。等覺院にては竹中丹後守(一月三日の伏見戰爭には德川勢の陸軍歩兵隊を指揮した人と聞く)一時公子と居室を共にし又山内知名の諸隊長、例せば春日左衛門の如き中山某の如きは屡公子を訪ふた。公子は之に依つて自ら軍事に關し啓發せられた所があつたかと思はる。言ひ忘れたが公子と從臣の一群は客兵ながら山内の純忠隊と云ふ一隊に編入された。」

(同掲書)

 

慶応四年新政府軍が江戸へやってくると、林家は家塾を閉鎖して巣鴨の別邸へと移住しプリンスもこれに従うことに。

なお、これより前に長行様は深川高橋の藩邸を出て東北へと向かっています。

 

 

林家を出たプリンスは寛永寺三十六坊の一つである等覚院に潜匿。彼を守護する唐津藩士も次第に増えていきました。

等覚院では竹中重固や春日左衛門等諸隊長がしばしばプリンスを訪ねてきたそうです。

 

 

プリンスと唐津藩士らは客兵として純忠隊に編入されます。

 

「既にして五月十五日となり彼の所謂上野の戰爭は早旦より始まつた 山軍能く奮鬪防戰したれども無援の孤軍勝算なく竟に力竭き薄暮に近き黑門口 谷中門口共に破れた。固より山軍を統率する大將あるにあらざれば事此に至つては全軍總崩れとなつて復た收拾すべからず。而して公子の進退は初より河野の指導に任せたれば公子は河野と共に輪王寺宮との接近を保ち敗兵と共に山後に北門より脱出して郊外に遁れ姑らく三河島に憩ふた。從臣の随伴したるは言ふまでも無し。夜に入りては各自随意に行動を取るの外なくして敗兵は四散した。而して公子の一群十人は潜行して道灌山邊と思はるゝ所に出て一大農家に入り食を攝り後事を議した。一行の年長者の栗原仙之助あり。敏捷にして機智に富むを以て自ら推されて萬事に先達となつた。竟に著衣佩刀銃器を家人に託し身を賦役に赴く人夫に變裝し案内者を傭ひ農家を出て深夜野徑田間を一列となつて歩行し拂曉目指す林家の巢鴨邸達した。幸に林公及重臣柴田權之進は何の顧慮する所なきのみならず斯くあるべしと期待したる如き態度にて公子は勿論從臣一同を邸内に入れて厚遇した。林家君臣の義俠的措置に對しては豈感泣せざるを得んや。然れども是は一面に於て公子の德望常に人をして景慕敬服せしめたる證左と爲すべきものならん。」

(同掲書)

 

五月十五日、上野戦争が始まり彰義隊が敗走。

プリンスと藩士達は幕臣・河野大五郎と共に輪王寺宮を護衛し、他の敗兵等と北門より脱出して三河島に逃れましたが、夜になり敗兵は四散。

 

プリンス達は途中農家で後事を話し合い、一行の年長者である栗原仙之助の発案により人夫に変装し、案内者を雇って巣鴨にある林家を目指しました。

 

「公子の潜匿所は竟に同志の間に知られ一日密報あり曰く幕府の所有船たりし汽船長鯨丸にて奧州に逃走するの準備成ると。依つて茲に再び公子を始めとし從臣皆變裝し今回は各自獨歩する事として白晝林家を去つた。江戸市中に出ては官兵の闊歩横行する街路を通過し特に上野戰後の事とて行人を嚴密に監視する關門即ち諸見附門の虎口をも幸に免れて夜を待つて品川灣に碇泊せる長鯨丸に乘船することを得た。同船には輪王寺宮既に御乘船にて一見當時の町醫とも云ふべき服裝であらせられた。小笠原家の醫師西川元瑞は醫術に長じ治癒を請ふもの多き□<※>以て藩邸外に居住したが輪王寺宮上野御脱出より長鯨御乘船までの間御潜匿場に就いて少からず庇護したものである扈從者には二三の僧侶あり武人もあつた。別に他の脱走者あり其の中に新たに我藩を脱走し來れるものも數人あつた。船は翌日拔錨し悠々品川灣を出航した。此時同じく品海に碇泊してゐた榎本武揚の率ゆる軍艦數隻の中より精鋭第一の新軍艦開陽が拔錨して後方より航走して暗に房州館山沖まで護送した。長鯨は之より外海に出て鹿島沖を航し翌日奧州平潟の小港に着し宮殿下以下一行皆上陸した。公子の從臣たる唐津藩邸脱走の壯士十餘人は藩邸の策士が密かに長鯨に積み込みたる小銃彈藥を身に着けて途中宮殿下警護の任に當つた。岩城平、三春等の宿泊を重ねて目的地なる會津若松に達すれば一行分れて其れ其れ豫定の落着き先に赴いた。」

(同掲書)

 

(註・※判読不明のため□にて表記しています)

 

 

林家に潜匿していたプリンスの元に幕府の汽船・長鯨丸が奥州に向かうという知らせが入り、これに加わることに。

 

上野戦争後特に厳しくなった新政府軍の監視から逃れるために各自変装して移動し、品川湾に碇泊している長鯨丸に乗船。

同船には輪王寺宮と従者の姿もありました。

また、新たに唐津藩を脱走して参加する者もあったそうです。

 

一行は平潟に上陸した後、輪王寺宮を警護しながら磐城平、三春等を経て会津若松へと辿り着きます。

 

 

なお、↑で触れられている西川元琳(小文字の部分)については、後年長行様の長男に当る小笠原長生様の随筆に次のように記されています。

 

<前略>

 話題を元に戻して前述の書道作振會の幹部には、近世書道の大家と云はれた故西川春洞翁の門下や縁故者が、大分澤山活躍してゐるね。此の春洞翁は弊家<=唐津>の舊藩士で、其の父元琳と云つた人は、江戸詰の醫師であつたが、明治元年五月上野の戰爭直後、輪王寺宮の御危急に際し、一時己の家にお隠まい申上げ、隙を窺つて其の代診に仕立て、駕籠側の若黨として、私<=小笠原長生>の義理ある叔父の胖之助と云ふ當時十七歳の少年―彼は評判の美少年であつたが、其の心肝は鐵の如く、彰義隊に加はつて黑門口に惡戰し、後奥羽より函館に遁れ、七重村の戰に多勢の敵に圍まれながら渡合ひ、其の三人を斬て捨て、七ヶ所の重傷に屈せず奮鬪を續くる際、彈丸に腹部を貫かれて戰死した―を護衞に當て、鐵砲洲より小舟に乘せ參らせて、品川沖の長鯨丸と云ふ軍艦にお送りした程の硬骨漢であつた。<後略>」

(『小笠原長生全集 第五巻 思ひ出を語る 偉人天才を語る 鐵櫻隨筆』 所収 「鐵櫻隨筆」 「書道」   小笠原長生、平凡社、昭和11年発行)

 

医師の代診に仕立てたので輪王寺宮の姿が「一見當時の町醫とも云ふべき服」だったのですね。

ここでは長鯨丸へと移動する宮の護衛をプリンスがしていたとあります。

 

 

また、プリンスが評判の美少年であったとの記述も。

 

 

最後に、唐津藩士・堀川愼の『簿曆』より引用↓

 

「<前略>同<=五月>三十日早朝堀尾金吾着す。是は去月二十四日新潟出帆、當月十四日橫濱着の所、其翌日上野の一擧にて江戸も甚騷々敷、其間を周旋し、私に脱走人を連れ、松平太郎樣周旋にて御軍艦長鯨へ乘込、平潟磐城平の海邊を稱す。へ去二十六日着のよし。尤も江戸海出帆は二十四日の由。胖之助樣、公<=長行>の父靈源<=長昌>公の後を襲ぎたる天休<=長泰>公の季子なり。兄三人は出でて他姓を嗣ぎしも公子獨殘れり。公視ること猶ほ所生の如し。大久保五郎君(前場小五郎の變名)以下曲淵等十九人同行、東臺大王輪王寺宮を指す。後の北白川宮能久親王の御事なり。御近侍四、五人にて御乘込に相成居り、其前胖之助公以下左の人々上野彰義隊へ這入り居り、落去の節三川嶋<ママ>迄御供致し候由。

 曾根<ママ><ママ>三郎 足立錬三郎 高須大次郎 同<高須>熊雄 水野榮松 香山五三郎 栗原仙之助 市川熊雄 田邊銕三郎

  〆 十人 九人を〆十人となしたるは、蓋し筆者の意は胖之助公子を加へたるものならん。また同行の人數を二ツに區別せしは、前者は彰義隊に入りしもの、後者は在邸又は他に潜伏せしを分つためなり。

 前場小五郎 曲淵一郎右衞門 堀尾金吾 渡貫七之助 宮川丈之助 白水良次郎 山際平三郎 鶴岡雄助 佐藤權太郎

  〆 九人

右の面々は曲淵、堀尾周旋により終に脱走致し、三手に分ち乘船致候由。彰義隊の面々は三川嶋<ママ>より御暇被下候處、自然又御目通致し候樣相成、船中にても御沙汰にて御匿近同樣御遣ひ被下候よし。尤も御沙汰無之とも、御落去の處迄は必御附添申上候積りのよし。右等は盡く高野大五郎君大盡力、西川元琳老藩醫なりとも一廉の御奉公致し候よし。<後略>」

(『復刻版 小笠原壱岐守長行 別名「明山公遺績」』 土筆社、昭和59年発行 所収

 

当時参加したメンバーについてや誰がどのように周旋したのかについて記されています。

 

 

さて、長くなるので今回はこの辺で。

続きはまた次回。