TVキャスター上杉理恵子 其の五
運転手さん、 もうすぐ左に曲がってもらいますからね、 この並木道が切れた処の信号です。 黒岩が身を乗り出すようにタクシーの運転手を誘導する声が理恵子にも聴こえていた。 ハイ、 其処の信号です、 そう、 其処を曲がったら左側に大きなお寺が見えますから其処の門から入った処で結構です。 昼間の明るい太陽の光が差し込む窓からは理恵子の眼にも大きなお寺の立派な屋根が見えていたのだろう。 えっ、 此処のお寺で、 まさか? ジャンヌの演劇はお寺の中でするのかしら、 理恵子は思ったのだ。 理恵子は黒岩から少し変わった演劇とは聞いていたが、其れが何処の劇団でどんな処で観劇するのか詳しい事は何も聞いてはいなかったのだ。 理恵子はその演劇の開演時間が昼間の二時からと言う事で別に何の疑いも無くディレクターの黒岩の誘いを受け入れていたのだった。
入社間もない理恵子にとって局内では敏腕で知られるこの黒岩からの誘いは嬉しかったのだろう、 理恵子は面接の時、自分の話を真剣な表情で聞いてくれた面接官の黒岩の事を覚えていて好意的な印象を持っていたのだった。 当時も今も放送局に入社する事は大変な競争率の中で勝ち抜かなくてはならなかったのだろう。 また合格した後も他の優秀な成績で入社した者との激しいライバル関係になるのだ。 幸い理恵子には背が高く美くしい美貌に持って生れた上品さがあり他の同期入社の中では群を抜いていたのだった。 其の点でもこの黒岩の眼に叶った女性だったのだろう。
有難う、運転手さん、 此処でいいです、 黒岩はさっとタクシーチケットを渡し先に降りて理恵子をお寺の境内の中に迎えたのだった。 ふっ、ふっ、 驚いたかな、理恵ちゃん、 黒岩は薄っすらと含み笑いを浮かべながら理恵子の眼を見たのだった。 正直、理恵子は驚いていたのだ。 ディレクター、 此処ですか? 理恵子は人気が無い境内の中をぐるっと見渡すように聞いたのだった。 うん、うん、 そう思うだろ、 黒岩は何故かそんな質問をする理恵子に得意そうに応えたのだった。 あのお寺の向こうだよ、 あのお寺の向こう側、 うん、 あそこまで少し歩こう、 黒岩はそう応えるとお寺の本殿の裏側を指すように理恵子の前を歩き出したのだった。
ふ~ん、 お寺の裏側に何かテントでも張って其処で観劇するのかしら? 理恵子は仕方なく黒岩の背中を見ながら歩くのだった。 えっ、 理恵子は分らなかった。 お寺の裏に廻っても何もなかったからだ。 不思議に思っている理恵子に黒岩は あぁ、 違うよ、 アレだよ、 アレ、 黒岩は二本の大きな松の木の間に止められていた黒い大型のワンボックスの車を指差していたのだった。 えっ、 理恵子はまた分らなかった、 黒岩はニコッと笑いながら其の車の前まで理恵子を案内したのだ。
其のワンボックスの車を前にして理恵子は戸惑っていた。 窓には全て真っ黒なフィルムが張られているのか中が全く見えなかったからだ。 すると其の大きなワンボックスの後の扉が横にスッと開いたのが分った。 うん、 大丈夫だよ、 此れ、此れ、 さぁ、 此れに乗って、 黒岩は理恵子に先に乗るように促がしたのだ。 理恵子は迷うまもなく其の車の中に乗ったのだった。 えっ、 何、此れ、 凄い豪華だわ、理恵子は想像以上に車内が豪華な造りになっていた事に驚いたのだ。 あぁ、 いいよ、 理恵ちゃん、 其処に座って、 黒岩は理恵子を豪華な椅子に座らせると運転席にいる男性に声をかけたのだった。 お待たせ、 それじゃぁ、 お願いします、 黒岩の声に運転手はハイ、 それじゃぁ、出発します、 と軽く返事をしながらゆっくりとお寺の裏庭から車を走らせたのだった。
片桐源蔵 オリジナル作品
