デンマークの実存主義哲学の方です。

「私がそのために生き、そのために死にたいと思うようなイデー」

「死に至る病は肉体の病ではなく精神の病としての『絶望』である」

などの言葉を残されております。


とはいえ実存主義哲学というとニーチェの方が有名でしょう。

彼の著書『ツァラトゥストラはかく語りき』は本屋でいまだによく見かけます。


どうでもいいのですが、キルケゴールは日本語では、キェルケゴールと表記されることもあるようです。


先日本屋に行ったとき探していたのが実はキルケゴールなのです。

『死に至る病』、その本屋にはなかったので、

岩波文庫で出てるみたいなので結局、近所の本屋で注文してもらいました。

カフカの変身も注文してもらってたりしてました。

店員さんによって店に本が届く日数が違うのではないか、と最近は疑っております。


最近は体の調子が悪いのではないのですが、活力面で調子が悪くなっているような気がするのです。

ちょっとした妄想が思いつかないのです、事実ありのまましか書けないのですよ。


まだ少しニヒルな感じです。夜が深まるとニヒルになっていくのかもしれないです。

お風呂に入ってきたらおそらくさっぱりするでしょうけれど、夜更かしするとニヒルに染まりきってしまいそうです。


どうでもいいのですが、先日のフランスパンはフォークでこげた部分を丁寧に削って食べましたのです。

なかなか美味しかったです。



最近、将棋を指す上で非常にこまったことが起こっております。

負けても悔しさが湧かないときがあるのです。


悔しさが起こらなくなった、情熱が薄れた、ということでしょうか。

これなら将棋をアートとして指すのであれば差し支えない、むしろ他意がなくなってよいと思っておりました。

しかし、実際には対局相手がつまらない気持ちになってしまうでしょう、それでは芸術ではないのです。



芸術は作者が愛して初めて作品になるのです、作者が愛せないのに誰がその作品を愛せるのか。



将棋は共同作業です。2人で作る芸術です、片方は情熱がなく、もう片方は相方によって退屈させられる。

このようなもので作品を愛せるでしょうか。いえ、おそらく無理でしょう。

これでは指さないほうがいいように思えます、生まれた棋譜、いや、作品が可哀想でしょう。

しかし私はアーティストでありたいと思うのです。


戦いとして将棋をみればまた変わると思うのです、しかし、今は考えないでおこうと思います。

これを考えてしまうと結論がでてしまうと思うのです。


私はニヒリズムからテロリズムに傾倒したパンダなのです。

なのでニヒルな時があるのです、しかしニヒルな部分はあまり好きじゃないです。

ニヒリズムは周りの人の活力を奪ってしまうのですよ。


伝染するニヒリズム。

これほど恐ろしいものはないのです、周りが皆ニヒリズムに傾倒したら、生きている気がしないかもしれないです。

一斉を風靡した私の憧れの先輩であります。

私は目前に目標がこないとなかなか重い腰なので持ち上がらないのです。

ですが、腰が重いゆえにプレッシャーがかかるとすぐ腰が抜けてしまうのです。

なので私は絶妙な距離感をとってモチベーションとやらを保たないと自分で自分を役立たずにしてしまうのですよ。

どうでもいいのですが、私は保育園時代400M走は結構好きでした。


日々ある程度の忙しさが欲しいと思うのです。たれぱんだ先輩はそこを超越しておられました。

あの方は暇を楽しむことを職業としたすごいお方なのです。


今フロベールの『ボヴァリー夫人』を読んでいるのですが、あの細かい描写はすごい。

読み飛ばすとすぐ終わりそうなのですが、あの本はあの描写も読まないともったいないように思えます。


なので非常に読むのが遅いペースになってしまうので、描写のない戯曲も一緒に読むといいんじゃないかと思ったのです。

そこで手にしたかったのがシェイクスピアだったのですが、何故か私の手にはモリエール。


『人間嫌い』このタイトルと、時代背景が私を惹きつけてしまったようです。

少し読んだだけなのですが、私の好きな部類に入ると思います、これは。


最近古典フランス文学ばっか読んでるように思います。

『二都物語』はイギリスのですが、フランス革命が舞台でした。

カミュはアルジェリア、フランスの植民地でした。

モリエールは1600年代のフランスの喜劇作家でした。

フロベールは1800年代のフランスの写実主義の作家でした。


ロシア文学に偏り気味かな?と思っていたのですがよくよく考えるとかじったのはトルストイのみでした。

自分が思っている以上に自分が読んでいる本が把握できていなかったです。


まさに無差別テロ。