憧れている気がします。

魚とか虫とかを見ていると思うのです。本能に従って生きるのがすごく羨ましく感じられるのです。

なので小さい子をみるとまた憧れます、無邪気さ、純粋に楽しんでいるに憧れるのです。

歩けるのが嬉しい、喋れるのが嬉しい。


今では当たり前になっていることなのであまり嬉しくないのですが、小さい子はそれを一つ一つ嬉しくかみ締めているみたいなのです。

僕は傲慢になりすぎた。

いや、それは違うかもしれない。

日常の当たり前のことに喜びを覚えれるということを羨ましがっているだけかもしれない。


最近は寝ること、食べることが非常に楽しみなのです。

本能に身を任せるのが心地よいのです。

でもこれは満足した愚者なのです。

僕は満足しないソクラテスでありたく思います。

常に知的探究心と好奇心は捨てずにいたい。


考えることを避けているような気がします、最近。

あいつらはなかなか愛嬌があります。

そしてなかなかユーモアがあります。


先日夢を見たのです。

魚の。

舞台は近所の大きい川、その川の水が干からびたのではなく、なぜか天まで届くかのようにずっと水位が上がっているのです。

それでも周りが水没しているわけではございませぬ。

河の付近だけが別世界という感じでした。

例えるなら竜宮城。


そこには5メートルくらいの鯉や、普通の大きさのなまずとからいぎょとか、何故かプレコ もいました。


そしてちょっと進むと鳥居があって、そこには直感的にその河の主がいるという感覚がしました。

鳥居の奥を覗くと、見覚えのある神社と同じ作りでした。賽銭箱と石作りの道と本殿と神木のよくある作りです。

ただ、少し違ったのは、そこになぜか体調10メートルを超えると思われるタコがいたのです。


河なのにタコ?今考えると夢は非常に面白い矛盾がたくさんあって面白く思えます。


そろそろ帰ろうと思うと、何故か魚に食べられるんじゃないか、と突然思いだして、ビクビクしながら出口へ向かいました。

何故か私は出口がどこにあるのか知っていたようなのです。

するとまた鳥居がありまして、その両脇には門番的なでかい魚がいたのです。


ご苦労様です、といいながらサラリと出ようとしたのですが、止められてすごい怒られました。

別に神社に入ったわけじゃないんだからいいじゃないか、とよくわからない言い訳をしていた気がします。

しまいには何故か手紙を渡されてこれを届けてくれるのなら生かして帰してやろうというような話になったようで、

私は手紙を持って外に出ました。

そのあとどこにでたのかわからないのですが、家に帰ったような気がします。


その手紙の内容が何故か、知人から知人への物でした。内容は喧嘩をふっかけたのは俺じゃないというような内容でした。

そのあとはどうなったのか忘れました、まだ続きがあったのか、それともこれでお終いだったのか。


今思うと、水系の夢をみたのは寝る前にトイレにいかなかったからではないかと思うのです。

危険信号だったのかもしれない。朝起きたらまずトイレに行きました。


そしてこの夢をみてまた思ったのです、魚は、いいです。河は大好きです。

海はしょっぱいのでちょっと辛いです。

あんなに渋かったのでしょうか。

昔はもっと甘かった記憶があります。


不二家も色々な騒動を経て少し大人に近づいたのでしょうか。

その経験を込めてチョコを作っているのでしょうか。

まるで作家みたいです、不二家もクリエイターだったのか。


どうでもいいのですが、スケートと比べるとシンクロはミスが目立たないのでしょうか、

少ないように見えます。

フランスのあの人はシンクロを芸術として行っておりました。

ロシアのあの人もフランスのあの人に触発されてシンクロを芸術を意識して行いました。


芸術は自分と妥協の戦いに思えるのです、ここまででいいかと妥協してしまえば楽なのです。

だけれど求めれば求めるほど芸術は芸術になりうると思うのです。

そんな厳しい道を自ら歩んだあの人達には敬服の意を感じずにはいられません。