5月24日は、わが家の「お風呂で呼ばれなかった記念日」だ。詳しくはこの記事に書いてある。
昨年のこと。ALSを患った妻は声を出せなくなり、用事のときはチャイムを鳴らして僕を呼んだ。呼び出しは頻繁で、娘と一緒に風呂に入る30〜40分の間も例外ではなかった。
毎日入浴中、少なくとも一回は呼ばれ、慌ててバスタオルを巻いて飛び出し、あれこれと介護をしたものだ。
昨年の5月24日、久しぶりに一度も呼ばれずに入浴が済んだ。娘と「お風呂で呼ばれなかった記念日」だねと言い合って、写真を撮ったという話だ。
あれから一年経ち、日付を忘れてしまっていたが、この6月6日の日曜日、たまたま記念日をメモした過去のノートが出てきた。
娘と、彼女と、僕の3人でそれを見て、記念日を過ぎてから気付いたことを残念がった。
娘は、にわかにママのことを思い出したのだろう。
「ママがいなくて寂しい」と言った。
僕はつい、
「あの頃は毎日大変だったじゃない、今は彼女がいていいよね」と言ってしまった。
すると娘はボソリと、
「ママの方がいい」と言った。
しまったと思ったが、ボソリとした言い方だったので、彼女も僕も聞こえなかった振りをし、娘もなんとなく気まずい顔をして、話しは流れた。
これは、僕が悪かった。
ママを思い出したタイミングであれば、一緒にママのことを思って話しをすべきだった。それをついねじ伏せるように、いいじゃない、今は彼女がいて楽しいんだから、と上から否定してしまった。
娘が反論するのは当然だろう。
結果的に、皆が傷つく一言を引き出してしまった。
これは僕の持論だが、言葉は人の心の全てを代弁するものではないと思う。意外に人は、反射で言葉を発するものだ。
思わず出た一言こそが本心を表している、といった考え方もあるが、そうばかりではないのではないか。
こうだろと言われると、そうじゃないと反射で反論する。
冷静になってそうじゃないのかと考えると、実はそうでもなく、あれこれというのが本心に近かったと、そんなことはよくある。こうだ、そうだで何を言っているか意味不明だが、伝わるだろうか。
絵を描くときに例えると、こうかなと思ってザッと引いた線が、どうも違うと思えるときがある。もう一度消して、この辺が思ったところに近いのかなと、補助線を細かく引き、考えながら正解の線を探す。
文を打つときもそうで、こうかなと思って書き出したら書いているうちに別のことが頭に浮かび、思案しているうちにようやく本心に近づくといった場合が、しばしばある。
そもそも、人の「本心」というものは、固定してしっかり位置を占めているのもではなく、モヤッと広がって形が定まらないまま存在していて、言葉で言い表そうとしてもなかなか正確に表現仕切れない類の物のように思う。少なくとも考えもない反射の一言で、言い表せるものではない。
こういう出来事は、弁解してもダメ、言い繕ってもダメと考え勝ちだが、そうでもないと思う。
事の本質は「ママの方がいい」と言ってしまった後、娘がやや微妙な表情をしたところにある。ついに言えた、スッキリでなく、あれ、今口にした言葉って正しかったのかなという表情だ。少なくとも僕はそう捉えた。
彼女には後で、娘はあなたが大好きで、いつも会えば大喜びしてるよ、あの言葉は本心そのものじゃないよ、といった弁解をした。しかし、もう少し正確に表現したくて、この記事を書いてみた。
僕の心ない一言が、反射の一言を引き出してしまった、娘に取ってもそれは言いたかった一言ではなかった。そんなところのような気がするのだが。
全く関係ないが、カルビーが季節毎に発売する、厚切りポテトのシリーズがある。昨日、店頭に夏ポテトが並んでいるのを見つけて買ってみた。
ちょうど彼女が、わが家に来てくれるようになった前後から冬ポテトにハマり、一緒に食べて時を過ごした。
すぐに春ポテトの季節になり、冬ポテトは店頭から消えたが、しばらくして「見つけたよ!」と言って、彼女がその冬ポテトを16袋(笑)買い込んで来てくれた。
そんなわけで今わが家には、冬から夏までのポテトが揃っている。彼女を含めた新家族で過ごしている期間は、まだ短く、このポテトの長さ程度なのだが、その間、彼女を本当に悩ませてしまったと思う。
伝わるか分からないが、感謝を伝えたい。