小学3年生の娘に、


「おにぎりを作る手伝いをして、それを作文にすること」


という妙な宿題が出されたことについて、少し前に記事を書いた。



ゴールデンウィークの際の宿題だったので、特別なものかと思っていたが、少々甘かった。なんと次の週も、その次の週も、連続で作文の宿題が出されているのだ。しかも内容は「何でもいい」になった。困ったものである。


そんな中、前回の土日に娘が書いた作文がこれだ。


たまたま、結婚式のお祝い返しで高い牛肉をいただいた。彼女と一緒にその肉で、すき焼きをしたことを書いている。



意図したわけではないが「おにぎり」、「すき焼き」と、食事のことが続いた。

何故そうなったかというと、とにかく早く宿題を終わらせようとしたからだ。

土日の出来事で何が一番楽しいか、終わってみなければわからない。だから日曜日の夜まで作文に手を付けない、などということをしたくなかった。

本来宿題など金曜日のうちに終わらせてしまいたい。かと言って、土日のことを金曜日には書けない。仕方ないから、せめて土曜の夜に終わらせようという話になる。

「土曜日のうちに作文終わらせておこうね。」
「何書けばいいの?」
「今日あったことで、まぁ、すき焼きのことでいいんじゃないの。」

こうなるわけである。本当は、その翌日、日曜日に彼女と娘と3人で出掛けているのだが、そのことは、作文には書かれない結果になる。

さらに、今回の土日に書いたものがこれ。


レストラン王将に行ってラーメンを食べた話。またしても食事の話になった。今週も同じように日曜日に出掛けているのだが、やはり作文には書かれない。そうなってしまうのである。


しかし「おにぎり」、「すき焼き」、「ラーメン」と、ここまで食事の話が続くと、今度は別の要素が立ち上がってくる。


連続性についての心配だ。おそらく先生は続けて作文を読むうちに、わが家の食事事情に多少なりと思いを馳せるだろう。


すき焼き、王将の次に、「レトルトカレー」や「カップ麺」ではマズイ。ヘタなものを食べた作文を書かせるわけにはいかなくなってくるのだ。


これはもう、美味しかった食事についてSNSに書くうちに、目的が入れ替わって美食店を巡るようになる、承認欲求の問題とほとんど変わらない。多少盛ってでも、いい食事のことを書かせ、先生の「いいね」を狙いたい気分になるのである。


ここに至って、子供の作文に親の見栄が介入するのはどうなのか、その浅ましさにハタと気づき我に返って自制に努めようという気持ちになる。来週からは、食事以外のことを書かせよう。


それもそれだが、これら作文で最も重要なことは、文中に書かれた「ママ」という呼び名のことだ。


娘は普段、彼女のことを、「○○さん」と名前で呼んでいる。時々少しふざけ気味に「ママ」と呼んだりもするが、基本は名前呼びだ。


「すき焼き」の作文を書いたとき「○○さん」と書きかけて、「どう書いたらいい?」と僕に尋ねてきた。


「『ママ代わりの○○さん』とか、『○○お姉さん』でどう?」


と言うと、娘は、


「やっぱり『ママ』にする。先生、去年病気でママが死んだこと知らないと思うし。」


と言って、「ママ」と書いた。


もちろん担任の先生は、ママがALSで亡くなったことを伝え聞いて知っているだろうが、娘が自分から「ママにする」と言ってくれたのが嬉しくて、「そうだね」と答えた。


先週、たまたま別件で担任の先生から電話があった際に、そのことを少し説明しておいた。もうこれからは「ママ」と書いても大丈夫だろう。


ただその時先生が、「バーベキューを食べた作文でママのことを書いておられましたね」と言われたのが少し気にかかる。バーベキューでなく、すき焼きであり、どちらが上か下かは分からないが、とにかくメニューは大事なのである。


自分の子供の頃は、そもそも宿題などほとんど出された覚えがない。今、道ゆく小学3年生を見ると、あの子もこの子も、今週末の作文をどう書いたのだろうか、親の承認欲求に毒されていないだろうか、などといらぬ心配をしてしまうのである。