記憶に残るもの | 王国ラジオ

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無気力なまま生きていく

仕事帰り、バス停に立っていると後ろから男性の声がしました。

「いい思い出ができてよかったな」

若いお父さんが小学校低学年くらいの男の子に声をかけています。

 

繁華街のバス停。すぐ後ろのビルには子供はもちろん外国人にも大人気のアニメキャラクターを扱った店が広いワンフロアを占めていて、親子は多分そこで楽しい時間を過ごしたのでしょう。

 

子供には楽しいいっぱい経験をして、いい思い出をたくさん作ってほしい 親として当然の思い。

でも思い出って意図してつくれるものだろうか、とふと思いました。

 

過去の旅を思い出す時、旅行前から楽しみに計画して行った場所や体験の記憶は私の場合ほとんど残っていません。

記憶に残りやすいアクシデントやそこから波及した出来事は別として、いつまでも覚えているのはなぜかとても些細なこと。

電車の発車時刻までの時間つぶしに期待せずに入った駅蕎麦が驚くほど美味しかったこと。

「なんかやたら犬の多い街だったなぁ。それも日本犬が多かったなぁ」そんな取り留めもない街の印象。

旅の終わり、帰りの電車の中で同行の友人がふと漏らした一言。

 

どの記憶も取り立ててその後の自分の人生に意味があったとも思えないのに、なぜかいつまでも繰り返し思い出されるのです。

 

若い頃、友人と3人で日本三霊山のひとつ白山に登った時のこと。

山頂付近ではずっと雨に降られて予定していたコースを半分諦め、余った時間は山小屋の中でどうでもいいような話に延々と花を咲かせました。

高い山の上まで登っておきながら、街のカフェですればいいようなことに延々と時間を費やす、無駄というか贅沢というかなんとも変な山行でした。

 

それから15年以上たち、その3人で話していた時のこと。

 

3人それぞれの記憶している白山の記憶が全く重ならず、しかもそれぞれの記憶を他の2人は全く覚えていない。

 

私の記憶といえば、帰りに金沢の駅前で入った飲み屋で食べた金沢名物「治部煮」が美味しかったこと。あとの2人はあまり興味を示さず、一人で全部食べてしまいました。

 

それでも1人が「黒百合って店だったね」と店の名前を覚えていたので、私の記憶は少しアップデートされました。

 

山だから、ただひたすらルートを歩くのみで、それ以外変わったこともしていない、行動する範囲も限られている、単独行動もない、行ってから帰るまでほぼ全ての時間を一緒に過ごしていたはずなのに。

こんなにもそれぞれの記憶が異なるとは。

 

(補足すると、私はこの後2回白山へ行きました。2回目はまた雨に降られ、3回目は見事快晴に恵まれ御前峰でご来光を拝み、夜は流星群も見ることができました)

 

別れた夫との思い出として一番よく思い出すのは、高田純二と野球のボビー・バレンタイン監督。

 

どちらの思い出も、夫と二人で家でテレビを見ていた時のこと。

高田純二が都内某所を他のタレントに案内しながら歩く番組で、彼が「この辺りは昔から粋なところでね、ほら、歩いているお姉さんたちもみなさん粋でしょう?」と言ったと同時に画面に映った「お姉さんたち」の「粋」な雰囲気(高田純二が狙って言ったかどうか、編集が上手いのかは分かりませんが)がなんとも絶妙で、二人で同時に吹き出しました。

 

バレンタイン監督は大リーグのメッツ監督時代、試合中に退場処分を受けたにもかかわらず、その後変装してベンチにいたという疑惑事件があり、その事件の翌日メッツの球場観客席に「変装したバレンタイン監督」の扮装をした観客があちこちに座っている様子を映すスポーツニュース。これも二人で思わず笑いました。

 

夫とは12年以上一緒に暮らし、色んな所へ行き旅もたくさんしました。お互いの親の世話もしたし、思い出の材料にはことかきません。

別れたくらいなので、辛いこと悲しいこともたくさんあったけど、楽しいこともたくさんあって、それらの記憶を思い出そうとすれば思い出せるのです。

それなのに一番リアルに思い出すのが、この二つのシーン。

この時の二人の間にあった空気、同じものを見て笑い、相手が笑うことでさらにおかしくて笑う、そんな場の空気は体感的にリアルで残りやすいのでしょうか。

 

もう一つは友人のエピソード。

 

その友人のお父さんは、家の玄関先で急死されました。10年ほど前。敗血症性ショックでした。

その日は休日で、友人は一人暮らしの自分の家のキッチンで餃子の皮に餡を包んでいる最中に「お父さんが玄関先で倒れた」とのお母さんからの電話で慌てて病院へ駆けつけました(この時既にお父さんは亡くなっていました)。

 

その後葬儀などをひと通り済ませ、1週間後に自分の家に戻った彼女が目にしたのは、慌てて家を飛び出した時のままのキッチンテーブルの上。すでに成形された餃子と、これから包もうとしていた皮と餡と水の入った小さな器。

幸いなことに真冬だったので、そうひどいことにはなっていなかったようです。

 

お父さんは一人で会社を経営されていました。

亡くなる1ヶ月程前に、彼女はお父さんに「(年齢的に)そろそろ会社の整理についても考えておいてよね」と少しキツく言ったそうです。

 

そろそろ会社の整理を考えてもいい歳なのに、一向にそのそぶりのない父。

結婚して東京にいて実家の親のことは彼女まかせの兄弟。

自身が関連の専門職ゆえに父が急に亡くなれば、間違いなく父の会社の整理など面倒なことは自分に降りかかってくる。

そんな状況のもと様々な感情によって発せられた言葉でしたが「あんなこと言わなければ、きっとお父さんはあんな死に方しなかった」と彼女は自分を責め続けました。

 

私は「そんなことはないよ」としか言えませんでした。

「そんなことはない」ことは彼女自身が百も承知だったはず、きっと。

あまりに急な父の死に、どこかに原因を求め犯人探しをせずにはおれなかったのかもしれません。

 

あれから月日がたち、この時の話を彼女とすることはもうありません。彼女が今お父さんの死を自分の中でどう整理したのか、していないのかは分かりません。

 

休日の夕方にのんびりと手をかけて作っていた夕食を途中で放り出し、1週間後に一人それを処分し黙々と掃除する彼女の姿。見てもいないのに、なぜか私にはリアルに思い描け、繰り返し思い出されるのです。

 

彼女にとってお父さんの死にまつわる思い出は、放り出されたままの餃子の山と、一人それらを処分した孤独な時間、それではないかと勝手に想像してしまうのです。

いえ、それは彼女の思い出ではなく、彼女を通して私の記憶として存在しています。私の体験ではないけれど、私の何かの体験が彼女の体験を通して呼び覚まされ凝縮したような。

 

記憶って不思議。

 

その時はすごく印象深く感じたのに、すぐ忘れてしまうこともあれば

「なぜそこ?」っていうような、特に意味もなさそうなことがいつまでも記憶の隅に残っていたり。

 

多分、顕在意識で記憶していようとなかろうと経験したすべての記憶は一つの塊として存在していて、その中から意識の表に出ている部分だけを私たちは記憶として時々すくい上げているのでしょうね。

 

すべてはいつか思い出となり、その大きな記憶の塊の中に含まれていく。

そう思うと、生きる時間にハレもケもないんですね。

一瞬一瞬の重さは同じなんだ。

 

道頓堀にもあるそうですが、こちらは北浜の浮世