1軒、2軒、、3軒もダメ。最後の問屋で40歳前後の部長が出てくれた
これまでの経緯を話したうえで”もうここしかありません、何でもやります
”と懇願した。すると”俺も小売には興味がある、やり方を任せてくれる
か”と持ちかけてくれた。仕入れは完了しチラシは私が作った。因みに
店名は「似鳥かぐ卸センター北支店」。卸とつけることで「安い」という、
イメージを与え、「センター」は大きいというイメージが湧く。北支店とした
のは本店があると思わせるためだ。我ながら浅知恵も甚だしい。チラシ

をまいて1週間ぐらいは結構売れた。ところがそのあとはパタッと売れな
くなった。4ヶ月たっても売り上げは全く伸びない。もっとも平日は客も少
なくロクに努力もせずにマンガの本などを店で読みふけっていた。配達
のため午後4時にはひとが居ないため一端シャッターを下ろしてしまう。
すると”商店街としては困る”と云われた。店の2階に寝起きしながら、お
金もなく一日3食、15円の即席麺ばかり食べていたら脚気になった。
視力も低下してしまった。ニコニコ笑って接客していたら歯茎から出血し

気味悪がられた。見かねて母が店を訪れ食事の面倒をみてくれるように
なり何とか体調は戻った。だが商売はうまくいかない。理由は私の性格、
緊張して接待客とまともに商談ができないのだ。窮状を見かねた母がこ
んな提案をした。”結婚すればいい”。そうすれば炊事、洗濯だけでなく
販売も配達も手伝ってくれるという。好きな女性を連れてこいというので
大学時代からの付き合いでお気に入りの女性を母に紹介した。すると母
は”あの子はいい娘さんね、でも美人はお客さんに嫉妬されるから”と認

めず愛嬌があり丈夫で長持ちするひとを連れてきなさい”という、お見合
いの数は数ヶ月で7回。ただ、こっちが気に入っても”長時間労働で親と
同居”という過酷な条件で結婚してもらえるひとはすくない。8回目の見合
いで出会ったのが今の家内の百々代だ。百々代は母の友人の遠縁とい
うことからも縁が生まれた。2回ほど会ったが”好きなひとがいる”と断っ
てきた。実は結婚するには早過ぎるという理由だった。あるとき実家に、
戻ったらなぜか百々代が両親と一緒にいる。どうやら両親のメガネに叶

ったようだ。結局、結婚を決めた。24歳の私と20歳の百々代は札幌
市内で式を挙げた。家内は愛嬌がいいだけではない。なんでも高校時
代は「女番長」だったそうで度胸も満点。商売上手で年間700万円が
採算ラインだったが結婚1年目から1000万円に達した。2年目には店
を増築して1500万円にまで伸びた。私は配達と仕入れに専念できた。
実はこの役割分担が似鳥家具センターが成長する原動力となった。
もし私が販売がうまかったら、ただの優良店に終わっていた。
 
 田舎からお袋の手を引いて電気屋に向かった。いじめの標的に
 なった。毎日が残業続き。ある休日、課長宛に、りんごが届いた。
 みんなで食べた。翌日、烈火の如く雷が落ちた。ネチネチと説教
 が続いたので、新米のくせに”いくら払えばいいですか”と出過ぎた
 ことをいったら地方に飛ばされた。「あげまん」と出会う左遷だった 
         気が弱いくせに、、人間とは不可解だ ぐっさんハイ                  
その後、履歴書を持って6、7社ぐらい回ったが住所不定で保証人も、
いない。折角、有名大学を卒業しても職は見つからない。食べるにも
困る状況に追い込まれた。友人の家を転々としたが迷惑がられた。再
び解雇された広告会社の所長の元に駆け込み”何でもするから置いて
ほしい”と懇願した。集金やバスのステッカー貼りなどを担当した。相変
わらず営業はさっぱり。やることがないので映画館に行ったりパチンコ
屋に入り浸り時間をつぶすのが大変だった。結局”君は成長しないな”

と云われ半年で再びクビお払い箱になった。それで札幌の街をぶらぶら
していたら父の弟で似鳥コンクリート工業の専務とバッタリ会った。”だら
しない生活をいつまでやっているんだ、仕事がないなら手伝え”と云われ
そのまま会社に戻った。仕事をするのはいいが家に帰るのは億劫だ。1
年ぶりに家に戻ると父は珍しく酒を飲んでいた。”家出して申し訳ない、
これから旭川で仕事に行きます”と伝えると”何しに帰ってきた!”と一升
瓶が飛んできた。ベランダのガラスが粉々に砕け慌てて叔父とともに、

逃げ出した。本当は嬉しかったのかもしれないが相変わらずだ。旭川で
は監督を務め測量などの仕事を覚えた。監督になったのはいいが現場
の作業員をまとめるのが大変だった。そのリーダー格は体中に刺青を彫
り100キロはある巨漢だった。昼間っから酒を飲み面倒な仕事はしない
作業員の間に不満が生まれた。そこでリーダーに”みんなと同じように、
仕事をしてくれないか”と頼んだ。すると”文句があるんなら部下を引き揚
げるぞ”と脅す。どうしたらいうことを聞いてくれるのか”と聞くと”力比べ

相撲、花札、酒に全部勝ったらな”という。花札、酒なら勝てるかもしれな
いが相撲は得意だが相手が大きい。まず花札は勝った。力比べは7、8
0キロの石を何歩歩けるかという競争だ。石を運ぶのは米の配達で慣れ
ており勝利。そして相撲だ。体重は65キロしかないが奇跡的に勝てた。
つぎの酒飲み競争、こちらは勝負がつかずに引き分けた。すると親分は
”大学出の割にはやるじゃないか”といい、和解できた。チームはまとまり
仕事のスピードはどこよりも速く利益率も郡を抜いた。仕事が順調だった

つかの間、作業員宿舎が火の不始末で全焼してしまった。私は責任をと
って辞めることになった。札幌の家に戻ると父は”毎年赤字続きだしこれ
以上続けても将来性はない。自分の道を考えろ”という。人生は振り出し
に戻った。丁度、会社の所有する40坪の土地と建物があった。この建物
で何か商売でもやろうと決めた。周辺を探すと家具屋を見かけない。食べ
ていくため生業として家具販売を選んだ。しかし同業の知り合いもいない
し問屋も知らない。手当たり次第、家具の問屋を回ったが相手にされな
かった。
 
   
    行き当たりばったりの人生。私も同じ。夢や希望とは全く
    無縁。学校から受験しろと言われて、はいった電気屋の
    世界。  お袋のケツにくっついて入門した ぐっさんハイ
大型台風が2個、江戸方面に帰ったあと、ぼんやりテレビを眺めていま
したら「西沙諸島観光ツアー」という番組が目にとまりました。あたしゃ
機会があればぜひ行ってみたいと思いましたらナレーターが”このツア
ーは中国人に限るツアーです”とシラけたことをいっていました。でナレ
ーターがしゃべっていたことはこんなことでした。「少なくともここは国際
的に注目が集まる係争地帯である。だがこの国は意に介さない。ベト
ナム艦船への度重なる体当たり、傍若無人な石油採掘。このところの

中国の力による領土拡張は止まることを知らない。中越「一触即発」の
状態と化したパラセル(中国名・西沙)諸島海域。しかし、肝心の島に
上陸すると事態はさらに深刻を極めていた。砂浜では若いカップルが
抱き合って写真を撮り、海ではダイビングを楽しむ観光客。昨年4月そ
れまで一般人の立ち入りを禁止していたパラセル諸島への観光ツアー
を解禁した。ここに掲載した記事はその解禁直後に記者が潜入撮した
ツアーの様子だ。ベトナムと領有権を争うパラセル諸島だが中国は、

ここ数年、実効支配の既成事実化を強引に進めている。今回の観光ツ
アーも、その中身は政治色を帯びる。参加できるのは、中国籍を持つ者
のみで、台湾籍や香港籍は許されない。申し込みには身分証を提示し、
当局の審査が必要だ。そして船内では、ガイドや元軍人スタッフによって
西沙諸島は中国領である」という愛国教育が繰り返される。ツアーは1人
5千元(約8万円)からと決して安くはないが、当初の月2回から増え続け
今では毎週数本のツアーが出発するほど大盛況。そして中国とベトナム

の艦船が衝突した時も、近くのパラセルの島々では、中国人観光客が
「南の島」を満喫していた。中国は、フィリピンと領有を争うスプラトリー
(中国名・南沙)諸島でも軍の基地を建設し、土砂を運んで埋め立てを
進めている。尖閣を抱える我が国にとって、これらは対岸の火事では
ない」。居座りの手口は漁民などに因果を含めて居座らせて生活の基
盤をつくらせて実効支配の尖兵となって今では諸島で漁をして観光客
に提供して生活の糧にしている模様もカメラに収まっていました。蛇足

なが居座っている漁民には日当として1400円が支給され、その他の
生活物資も政府から提供されているそうですからウハウハじゃないでし
ょうか。観光客には国家斉唱を義務付けられ”侵略者には砂の一粒も
許さない!”と拳を突き出しながら強要されるそうですから西沙諸島ツ
アーの観光客は愛国者のツアーでもありますな。このノリで尖閣諸島ツ
アーなんかおっぱじめられたらどうなさいます?。なんでも反対のセン
セ方。なんでも反対同盟の方々。
  
  そういえば お隣りの歴史認識を うわごとのように繰り
  返す国もおなじ手口で居座ってありますな ぐっさんハイ

*似鳥のおっさんの話の合間に世相の流れもありますれば日曜
 も休まず出前をお届けさせていただきます          店主