もちろん客はなかなか支払いに応じようとしない。そこで弟分が暴れる。
そして兄貴分の私が”お客さんは払わないとはいっていないだろう”と、
なだめ役に回る。すると大抵の客は払ってくれる。スナックのママには
”どうやって回収したの”と驚かせ取り立てたお金の半分をもらった。あ
とはパチンコ、ビリヤードにスマートボールには自信がありハスラーとし
て随分稼がせてもらった。このころ家出して大通り公園をうろつく女性も
増えたので仕事の世話をして紹介料をもらった。(体で払った女性も、

いたとはありませんでした。が怪しいものですな)。こんな破天荒な学生
生活ながら無事2年間で卒業できた。卒業後、父の会社に入社した。
ところが、はいって間もなく盲腸を患った。手術が遅くなり癒着してしま
い回復が思わしくなかった。医者もしばらく安静にするよう診断したが、
親は”家で遊んでいる余裕はない働け”という。扱いは子供のころと変わ
りない。復帰はしたものの傷は痛む。自分の身は自分で守らねばならな
い。そうして母が米の配達をしているのを見計らって家出に踏み切った。

家出した後、友人に頼み込んで家の屋根裏に住み着いた。1枚の布団
で男ふたりが寝た。ところが友人の彼女が頻繁に来るし、長くは滞在で
きない保証人もなく部屋もないので住み込みの仕事を探したが、そんな
条件ではなかなか見つけられなかった。が、1社だけ見つけた。広告会
社だった。バスにつける広告をとるのが仕事で本社の東京からの出張
者の寝泊りするアパートを併設しており私はそこに住まわせてもらった。
1ヶ月50万円の広告獲得がノルマだが私は全く達成できない。この頃、

人前で真面目なことを云おうとすると赤面したり言葉に詰まったり軽い
対人恐怖症だった。広告主の元に行っても相手にされない。たまに会え
ても用件がうまく伝えられない。もぞもぞしていると追い返される。ノルマ
が達成できないと本当は辞めさせられるが住むところがない。そこで外
回り後、寮の食事や掃除をする仕事を引き受けて何とか残留した。契約
もとれないままノルマが達成されない他の新入社員は相次いで辞めさせ
られた。私も解雇の対象だったが、ひとつだけ生き残る道を見出した。

花札だ。所長が大の花札好きで毎日のように所長室に呼ばれ朝方まで
付き合わされる。実は花札は得意中の得意でいつも所長を負かしていた
私へのツケは3ヶ月分の給料に相当する金額になり催促しても払ってもら
えない。私はこう言い放った。”クビのときは借金を返してください”。6ヶ月
が過ぎた。契約は取れない私だが花札のおかげで辞めさせられなかった
ところが本社がこのことに気づき所長に解雇するように伝えた。所長は私
へのツケをどこかで工面して”悪いけどこれで辞めてくれ”とお金を渡され
解雇されてしまった。
  
  電気屋の世界に入門したら 顧客の中に麻雀をこよなく愛する
  おっさんとめぐりあった。その親父さんがカミさんとの縁を結んで
  くれた   非常識と常識的なコンビの誕生だった ぐっさんハイ
そこで編入試験を受けたのが北海学園大学だ。当時から道内の私立
大学ではトップクラスで憧れていた。もちろん自分の実力ではどうしても
はいれない。そこでカンニングを思いついた。苦手の英語は編入試験
を受ける同じ短大の友人に任せ経営学は自分でやると決めた。英語を
担当する友人が問題を解くのに必死て見せてくれない。一方、経営学の
試験の内容は「マルクスレーニン主義について知っていることを書け」。
私も必死で書いていたが教える余裕などなかった。おかげで英語は、

さっぱりだった。結果は私が合格し友人は落ちた。飛び上がって喜んだ
私の点数は経営学が70点、英語は5点。両方で合格ラインが70点だ
った。友人は”何でおまえがウカるんだ”とグチった。それまでいじめられ
バカにされてきた周囲を見返したつもりで北海学園大学に、はいりたか
った。憧れの大学に入学を果たした。「北の早稲田」とも呼ばれ北海道で
は就職先もいいと”これで将来は約束された”なんて勝手に浮かれていた
もっとも講義の内容はチンプンカンプン留年は避けられないと両親に伝え

たら”留年はダメ、留年は一切認められない”と厳命された。実家の似鳥
コンクリート工業を継がせるためで。聞く耳を持たない。相変わらず両親
は怖いのでなんとしても2年間で卒業しないといけない。教授をホメたり
ワインを届けたり、できないなりにあらゆる努力を尽くし単位取得に動い
た。そのためにはバカバカしいこともした。とにかく簡単には単位をくれな
い先生がいた。その先生を尾行してみた。そのうち札幌市内に行きつけ
の飲み屋があることが分かった。どうやら飲み屋のママがお気に入りで

時間さえあれば、この店で飲んだくれているようだ。先生が飲んでいる日
に私も入店。そうしてさりげなく近づいた。”偶然ですね、私は先生の門下
生です。先生の講義は本当に面白いです”と話しかける。酒を飲んでいる
うちに恐妻家であることが分かった。そこで先生の奥さんに電話して”教
え子の似鳥と申します。先生を朝までお借りしますから”とアリバイ作りに
ひと役買った。おかげでどんな回答でも「優」をもらえる約束をした。ところ
が当日、白紙で出した試験の結果は「〇点」。気が動転して先生の部屋

に駆け込んだ。来客はあったが関係ない。”先生スナックの約束を破るん
ですか!”。と問いかけると先生は怪訝そうな顔つきをする。しばらくして
顔をしかめた。別室に呼ばれ”あのときの君か”となだめられ次回の試験
から「良」を取得した。名門大学にはいってもこんな調子で品格もへったく
れもない。アルバイトは夜のスナックで客の未払い金の取立て屋をしたこ
とがあった。当時は高倉 健や菅原文太の任侠映画の全盛期。私は浴
衣着を着て「その筋のひと」を演じ、近所に住む弟分を引き連れてツケを
払わない客の元に出向く。”ごめんなすって”すっかり、その筋のひとにな
りきった。
    
    私は似鳥おじさんのようなチエが回りませんでしたので
    ひたすらアルバイトに精を出しました 学校では、てめえ
    が映画を観たいばっかりに「映画部」をつくって映画館を
    めぐり「学割」を発行して人気を得ました  ぐっさんハイ
それを食べさせられたのはいうまでもない。中学時代も勉強は相変わら
ず。先生のいうことが頭にはいらないので漫画ばかり書いた。当然高校
入試はことごとく落ちた。最後の砦は北海道工業高校。ここで落ちたら
全滅だが、やはり不合格だった。私はなにか手を打たなくてはと考えた
ヤミ米の販売先の友人が、その学校の校長だった。夜中に米一俵届け
”何としても合格したいんです”と訴えた。そのおかげかどうか分からない
が補欠合格となった。高校にはいったあとも、いじめは続いた。不良グ

ループからは因縁をつけられ痛めつけられる。あるときオートバイに乗
って米を配達していたら殴られたうえに奪われてしまった。父は取り返し
て来いというがひとりでは無理だ。3、4歳うえの不良生活をしている従
兄弟に事情を打ち明けるとすぐさま応じてくれた。従兄弟は不良グルー
プの兄貴分だったようで”ついでに、あいつらボコボコにしといたからな”
と笑った。無事バイクは戻ってきたが、ただ、このままではダメだと思い
ボクシングジムに通った。もちろんケンカに強くなるためだ。成績は、

相変わらず悪い。1年生60人中58番目。ところが私より下だったふたり
は程なく辞めてしまう。学級のドン尻が私の定位置となった。高校時代も
終を迎え問題は卒業だった。卒業の条件は珠算3級と簿記3級の取得だ
ソロバンは高校でも有数の腕前で問題はない。だが簿記は苦手。先生に
呼び出された。このままでは卒業できないと云われた。母に打ち明けると
今度は、さめざめと泣かれる始末。仕方ないので必死で友人の力を借り
ながら何とか卒業した。この頃、父は”おまえは、のろまで、だらしない、

成功するにはひとの倍努力するか、ひとのやらないことをやるしかない。
そうしてこんな話もしていた。頭が悪いのだから国立や有名大学を卒業
した優秀な人材を使えばいいんだ”。この言葉は私の心に残り実践する
ように心がけた。父は自分がやっていたコンクリート会社を継がせる、つ
もりだった。ヤミ米の販売とともに会社も手伝っていたので技能は身に
ついた。だが休みもなく仕事もきつい。そこで”俺は勉強したいんだ大学
に行かせて欲しい”と訴えた。”勉強はまるっきりできないくせに何が、

勉強だ!”と両親はこちらの魂胆を見抜いていた。なんとか粘って大学
進学を認めてもらった。ただし入学金や授業料だけでなく自活すること
が条件で生活費まで自分で稼ぐことになった。1962年何とか札幌短大
に滑り込んだ。もっとも親の仕事から逃げたいだけだったから大学には
ろくに行かない。空手部にはいったぐらいで勉強はしない。授業料は自
分で払う約束だから年中アルバイトばかりしていた。アルバイト先の娘と
仲良くなって部屋で遊んでいたら親にぶん殴られた。そんな短大生活の
終わりを迎えた。もうすこし大学生活を満喫したいと思った。
   
   少年自衛隊に応募して最終選考まで残ったのでロクに勉強は
   しなかった。しかし落ちた。慌ててソロバン学校に滑り込んだ。
   自衛隊にはいっていたら別の世界を覗いていた ぐっさんハイ