もうすこし食べたいなんて云おうものなら味噌汁をぶっかけられ、ぶん
殴られた。父からは月に一回ぐらい気絶するまで殴られた。熱があって
も休めない。逆に気が抜けていると怒られる。だから頭はいつもコブだら
けだった。しかも食器が飛び交う激しい夫婦ゲンカも絶えなかった。勝つ
のは腕っ節の強い母だ。家の手伝いもきつい。冬は大変、地吹雪の中、
置き去りになり生死の境に直面することが何度もあった。ヤミ米の配達
に毎日かり出される。冬のある日、配達先で震えていると母に殴られた

”相手先の家では、きちんと挨拶してニコニコしていろ!”震えている姿
なんて相手は不愉快なだけだ”と。確かにニコニコしていると、りんごや
ミカンをもらった。嬉しくて芯まで食べたものだ。以来、家を一歩出たら
ニコニコするようになった。ヤミ米の配達、鶏の世話などに加え祖母が
持ってくるフキやワラビを売りに行くことも私の仕事だ。すべての仕事は
「出来高払い」。お金の管理は母がやる。私が使うすべてのものは仕事
の報酬で購入していた。うまくこき使われたものだ。家では殴られながら

こき使われ学校でも悲惨な目にあった。小学時代はまさに、いじめらた
”ヤミ屋ヤミ屋”と、しょっちゅう罵られクラスでも有数の貧乏一家で着て
いる衣服はツギハギだらけ体も小さくトイレに呼び出されては殴られた。
いじめられてもいつもニコニコしていたので「ニコリくん」と呼ばれていた。
親にいじめられていることを話すと”ツギハギでなにが悪いヤミ屋で生き
ているのだから堂々としろ!”と逆に怒られる始末。逃げ場がなかった。
”勉強しろ”と云われても手伝いをさせられる。当然、勉強はできない。

のみ込みが悪く先生が何をいっているのか分からない。だから通信簿
も5段階の1か2ばかり。母にはいつも”1か2が良くて5が最低”とウソ
をついた。長い間バレなかった。何も知らない母は井戸端会議で”ウチ
の子は1か2ばかり”と自慢していた。周囲も昭雄ちゃんが、また叩かれ
るからと黙っていたらしいが、さすがに誰かが”1が最も悪い”と教えた。
長年、私の話を信じていた母は驚き学校まで聞きに行ったらしい。勿論
バレて家に帰ったら叩かれて”勉強しろ!”という。そのくせに手伝い

ばかり。成績は伸びなかった。中学校に行っても境遇は変わらない。米
の配達のおかげで一対一なら負けない腕力はあったが、いつも集団で
暴行を受けた。ある日、ヤミ米を配達していると同級生に出くわした。嫌
な予感が走ったが避けられない。自転車もろとも川に突き落とされた。
頭から突っ込んでいたら死んでいたであろう。ドロドロの姿で家に帰ると
母がこういった。”米はどうしたの!”。私が事情を話したら”落ちた米を
拾ってこい”という。仕方ないので川に戻りドロドロの米を持ち帰った。
  
  昔の親は正直でした。てめえのガキよりコメが大事、、そんな
  モノのない時代でもありました 私もよくトイレに呼び出され殴
  られました。それがイヤで家からモノを持ち出してバレて親父
  から死ぬほど殴られました。            ぐっさんハイ
日経新聞の私の履歴書に登場される方々は立身出世を遂げた、いわ
ゆる成功者ばっかです。ですが、ニトリの創業者である似鳥昭雄さんっ
て方は破天荒な人生を送ってありますな。キーを叩いてもいいのかなと
思うほどの猛烈な人生ですなあ。巷ではやれ夢とか希望とか浮かれた
話が横行していますが、似鳥のおっさんは、現代人に決定的に欠如して
いる行き当たりばったりのピンチを、てめえで”なんとかしながら”幾多の
危機を突破して、今日のニトリの創始者になったんですねえ。それでは、

あたしがつべこべいわずに似鳥さんの履歴書をパクってみることにいた
しましょう。「ニトリホールディングスはおかげさまで2015年2月の決算
で28期連続増益を達成することができた。ニトリは1972年に101店
売上1000億円という計画を作り、03年で達成。13年には300店を達
成し今は3000店・3兆円という、つぎの30年計画に向けて動いている。
こう話すと頭脳明晰な経営者に思われるかもしれないが、実はその逆で
飲み込みが悪く子供の頃はすざましい劣等生だった。数年前、小学4年

まで通った小学校の担当の先生のご家族からこんな手紙をもらった。”
私はニトリ社長の小学校時代の担当をしていた女性の孫です。祖母は
よくこんな話をしていました。クラスでひとりだけ漢字で名前を書けない
のは似鳥君だけでした。教えても教えても覚えられず結局ひらがなを書
いていました。あの似鳥君が北海道で成功している。何でだろう。その
いきさつを聞いてみたいとよく話していました”。劣等生だった私がなぜ
成功したのか今回の履歴書で半生を振り返り先生の疑問に答えていき

たい。今も飲み過ぎるし遊び好き、だらしない性格も変わっていない。
逆に何にもできないから色々なひとの力を借りながら成功できたと思う
私は昭和19年樺太に生まれた。父は太平洋戦争が始まると出征し、
シベリアに抑留された。母はソ連軍の嫌がらせに負けない気丈な性格
だった。昭和22年、北海道に帰り着き札幌に住む母方の祖母の家に
居候することになった。ひと間と台所だけの家に雑魚寝していた。数年
後、父がシベリアから戻り別の引揚者住宅に住むことになった。父は、

ほどなく土木会社を作った。母はヤミ米屋だ。取締りで駐在所に呼ばれ
ると母は必ず私を連れて行く。”ヤミ米はやめてくれ”と云われると”小さ
な子がいて食べていけない”と泣く。”それでもヤミはダメだよ”云われる
と今度は開き直って”あんたらもヤミ米を買っているんでしょ、私はみて
いるのよ!”と逆ギレした。取り調べを受けても母はめげない。また密告
される。そんなことの繰り返しだった。子供だった昭和20年代は本当に
過酷だった。ちょっとでもヘマをすると両親から殴られる。今の時代なら
虐待ととられるかもしれない。空腹のあまり”もっと食べたい”とでもいう
と、、。
 
 私だって てめえの名前は親父にボコボコにされながら書けるよう
 になりました 殴られるのは当たり前の時代でした  ぐっさんハイ
朝っぱらから下ネタの話で恐縮ですが、日経新聞に「世界一のトイレで
お出迎え空港が日本を演出」という記事が目にとまりました。確かにトイ
レとは、その国のイメージに強力に印象付けるものですね。今はかなり
改善されたとは思いますが、7、8年まえ中国の表玄関の上海の大学の
トイレでは投下したウンOがそのまま積み上げられ、さらに驚いたことに
ドアがなかったんです。あれじゃ出るものの出ないという状態でした。マレ
ーシアまで行って、そこから雲南省にツアーにジョイントしてトイレ探しに

神経をすり減らした苦い思い出が蘇ってまいりますが一緒に行ったマレ
ーシアの華僑も、たじろぐような荒れ具合といってもピンと来ないかもわ
かりませんが、とにかく片足で用を足すなんて曲芸師みたいな格好で、
用を足すなんてえことも結構ありました。いま来日して爆買いするメニュ
ーのなかにウォッシュレットが含まれているそうですが、彼らにとっては
魔法のような貴重品ではないでしょうか。あら横道にそれてしまいました
が下ネタのトップメーカーのTOTOは成田国際空港に最先端のトイレを

体感できる空間「ギャラリーTOTO」を4月に開くと発表。なにしろ昨年は
日本を訪れた観光客が1300万人を突破したそうで、今年は1800万人
から下手すりゃ2000万人も押しかけるって強気の予想もありますようで
外国人に馴染の薄い温水洗浄便座「ウォシュレット」を内蔵したトイレや
自動水栓付きの洗面台などを設置し、空港利用者に実際に使ってもらう
訪日外国人を迎える玄関口で、同社の技術力を発信する。第2旅客ター
ミナルビルの連絡通路に設ける。約145平方メートルのスペースに男性

用と女性用で計10個のブースを用意。さらに除菌・脱臭機能を強化した
最新モデルの便器などを設置する。車いすの人や高齢者に配慮した多
目的トイレや授乳室もある。壁面には大型映像パネルを採用するなど、
斬新なデザインとし、ショールームとしての役割も持たせる。”あの場所は
なんだ?”。米国から訪れた旅客が思わず目を奪われた。影絵のランナ
ーが壁面をびゅんと駆け抜けていく。興味をひかれて近づく。目の前に立
って初めてその空間がトイレだと気付いた。”面白い!”と思わせたならば

この仕掛けはデザイナーの意図通りだ。成田空港にオープンした「ギャラ
リーTOTO」。壁面には影絵のような動画を投影できる。トイレの個室には
外部に取り付けたライトが青から赤に変わることで利用者の滞在時間が
分かるようになっている」と記事にはありました。しかしですな。トイレには
いってホッとしてブルーカラーがいきなりレッドカラーになってしまったら、
気の弱いあたしなんか出るものがストップしたり追い立てを食らっている
ようで却ってイメージダウンになりゃしませんかTOTOさん。

  
  訪問国のイメージ三要素 トイレ お札の新鮮さ タクシー
      (だれですか オンナって呟くひとは) ぐっさんハイ

*明日から”なんとかする”という行き当たりバッタリで天下を盗った
 ”♪お値段以上OOO~”の主人公の登場で~す。