ただその土地は「難攻不落」としての土地で有名だった。地主の4兄弟
が所有しており売却の話には、なかなか首をふらない。お願いに行くと
地主の長男は段ボール箱に山のようにはいった名刺を見せた。そこで
私は”アメリカのような豊かな暮らしをお手伝いしたい、この土地はその
拠点にしたい”と熱弁を奮った。ツアーの話をして写真を見せて私は”言
い値で買います”と伝えた。すると地主は納得して兄弟を説得してくれた
もっとも坪35万円で相場よりも15万円ぐらい高かった。地代は当時の

似鳥家具の年間売り上げの半分ぐらいになるが採算のことも考えず購
入を決めた。おかげで周辺の不動産屋から”相場を壊す”と文句をいわ
れた。資金はなかった。それどころか仕入れ代金の支払いを繰延べて
もらう状態で倒産の噂も立った。北陽相互銀行へ出向き融資をお願い
した。はじめは断られた。”いい場所だから”とすがり地主とおなじように
米国の話をしながら説得に説得を重ねた。交渉事は断られてからスター
トだと考えている。大半は3回断られたらやめてしまう。私は4回目から

スタートだと考えるようにしている。そのためには愛嬌と執念が大事。こ
れはヤミ米販売時代の母の指導のおかげだ。融資は認められ73年、
麻生店が開店した。2年目から黒字化が成功した。これからの厳しい
時代を迎えるため断食道場にはいった。水だけの生活をしていると最
初の3日間は苦しいだけ。ところが4日目にはいると色々なことが頭を
駆けるようになる。厳しかった両親や兄弟、社員のおかげで生かされ
ている。これからもみんなのために生きるんだと。涙が止めどなく流れ

その思いをメモに残した(格好いい!)。45歳まで断食道場を続けてい
くうちにそんな境地に達し顧客のため自分をゼロにする心境も芽生えた
3号店は成功を収めたが創業期は苦難の連続だった。当時は一般の、
客にも掛売りをしていたが、あるとき販売先の会社が倒産し未払い金の
回収にライトバンで向かったが2~3日たっても社長は戻らない。張り込
みをしようとパンと牛乳を食べながら車内で寝泊りをしていた。朝方よう
やく社長をつかまえ販売した家具を回収するとともに土地の一部を差し

押さえることができた。無事代金は回収できたが、こんなことを繰り返し
ていては経営は安定しない。そこで掛売りは一切やめた。同時に値段
をスーパーとおなじように同一価格に変更した。商法も夜陰に紛れて、
現金で製造元から家具を仕入れる。「いつも安売り」のやり方は当時と
しては画期的だった。業界の秩序を壊すと批判もされたが他社と同じ、
ことをやっていたのでは成功しない。だから3号店が開店したころ、地
元百貨店の家具売り場の責任者を営業部長としてスカウトしたところ
会社は倒産の危機を迎えた。
   
   出稼ぎの当初は言葉もロクに喋れず 自信喪失 前任者の
   猿真似に終始した。あるとき江戸に出張して”ぐっさんらしさ
   はどこえ置いてきた”と野次られた そのひと言で我に帰った
                                ぐっさんハイ
すると怒らずに”それはあんたが悪い”といい好きなだけ持ち帰ってもら
うことにした。ほぼトラック1台分で売り上げ1ヶ月分に当たる。配達後
家内はこういった。”あんたの小遣いは今月からゼロよ!”。1号店が、
軌道に乗り徐々に事業意欲が湧いてきた。2号店を父が経営している
会社の所有地に作ることを考えた。そのためには資金が必要だ。必死
に金策に駈けずり回ったが全く相手にされない。あるとき鏡に映る自分
を見たら悲壮感が漂っている。この顔ではお金は貸さないだろうと思い

頬紅を塗り満面に笑みをたたえて地元の信用金庫に出向いた。資金の
使い道など支店長に説明すると書類を揃えて後日来て欲しいという、そ
こで、ひと芝居打った。”今日決めて欲しいです。北洋さんや北海道拓殖
銀行も貸したいといっています”とウソを並べ立てた。当時の融資で500
万円以上というのは信金には大きな決断だが、こっちの自信満々の姿
勢に賭けてみようと思ったらしい。融資はOKとなり2号店となる北栄店を
出店した。これが驚くほど売れた。北海道では、はじめてとなる郊外型の

家具店。金利負担がもったいないので信金には2年で返済した。支店長
は”クビにならずに済んだ”と笑いしながら栄転していった。ところが2号店
から500m離れた場所に1200坪の家具店が出店した。とたんに売り上
げが2割、3割減と落ちていった。赤字になり金融機関から融資をストップ
された。このままでは倒産する。もう死ぬことばかり考えてしまった。憂鬱
な日々が続く中、家具業界のコンサルタントを務める人物から米国の家
具店を視察するセミナーの話が持ちかけられた。藁にもすがる気持ちで

視察に参加した。視察でまず驚いたのは洋服タンスや整理タンスなど日
本でお馴染みのハコモノ家具がない。アメリカの家ではクローゼットの中
に組み込まれているからだ。参加者は口々に”アメリカと日本は違う世界
だ”というが私はそうは思わない。おなじ人間がやっているんだ日本人も
便利さや安さを今以上に求めるはず。そう考えると目に映る店のすべて
がとても貴重な情報に見えてきた。日本でもアメリカの豊かさを実現した
い。そんな気持ちが、ふつふつと湧いてきた。帰国して参加者の中で気の

あった仲間と話し合った。”アメリカのマネをしてみよう”。結局、実行した
のは私だけだった。2号店の経営が思わしくて藁にもすがる思いで参加
した米国視察ツアーで間違いなく覚醒した。アメリカのような豊かな生活
を日本で実現したい、、。明確なピジョンが芽生えたのでライバル店の出
現で苦しんだが、やられたらやり返す。札幌の東西南北に敵を取り囲む
ように店舗網を作ろう。豊かな生活実現のために相手を潰してやろう。
まずは10店舗だ。さっそく3号店を作ろうと土地を物色した。すると札幌
市内に好物件を見つけた。
    
   マレーシアで経営者の端くれだった 私も金策には頭を痛めた 
      カミさんは私の栄養補給の食材に頭を痛めた ぐっさんハイ
私が仕入れや物流、店づくりに集中したことで企業として羽ばたくことが
でき、さらに家内の加入で似鳥家具センターは軌道に乗った。振り返る
と「内助の功」のエピソードには事欠かない。結婚して間もなくのころ「こ
わもて」の客が値段を半分にしろ!”と怒鳴りだしたことがあった。”それ
はできません”と家内が断ると、そのひとたちは土足のままソファのうえ
に飛び乗り真っ黒に汚してしまった。家内は商売にならないので”弁償し
てくれ”と頼むと”俺を誰だと思っているんだ”と凄んでくる。家内も負けて

いない。お互いに言い争っていると、こわもては、ついに根負けして”家
に取りに来るならソファー代は払うさ”という。そうして家内はそのひとの
家に行ってしまった。私はひとりでオロオロするばかり。後で家内が家に
戻り、いきさつを聞くと思わず笑ってしまった。こわもての家にはドーベル
マンが2匹いて、その犬に生肉を与えて獰猛さを見せつけている。家内
をビビらせられると思ったようだ。ところが家内はドーベルマンが肉を食
らう姿をみて平然と”それ何の肉ですか”と聞いたという。当時は肉は、

高価で牛肉でも豚肉でもめったに食べられず、つい好奇心が先だったと
いうわけだ。こわもての客は”怖くはないのか”と聞くと家内は”肉がもった
いない”と答え、相手はすっかり調子抜けしていた。”おまえ、いい度胸し
ているな”といわれてソファー代を払ってくれただけでなく、たびたび家族
や親戚や知り合いを紹介してくれお得意さんになった。家内は金回りの
いいひとに好かれる性格だったようで似鳥家具の売り上げが順調に伸び
少しは余裕ができた。一方、私の腹は定まっていない。仕入れと配達が

私の役目だがレジから黙ってお金を掠め悪友たちと居酒屋で飲んだり
パチンコ屋へ行ったり、まともにパチンコ屋に行ったらバレるので店から
100m離れたところに配達車を駐車した。もっとも「似鳥家具」と書いて
あるので見つかりドヤされるわけだが美人のいる配達先でビールとおつ
まみが出た。そこに2時間ほど居ついてしまった。しばらくして家内を車に
置いてきたことを思い出し、戻ってみると家内は居ない。慌てて家に帰る
と”別れてやる!”と激しい剣幕で家出のための荷造りをしていた。

このときばかりは頭を地に、すりつけて許しを乞うた。ある日ひとりの男
性が店を訪れ”私は似鳥さんが広告会社時代に付き合った女性の父親
です”という。当時その女性と結婚してもいいと思っていた。結局ひどい
別れ方をしてしまった。その父親が1万円を差し出し家具一式を売って
欲しいという。実は別れたときに慰謝料が支払われていないので、その
分を家具道具で許してやろうというつもりだった。私は、また家内に再び
土下座して過去の経緯を話した。すると家内は意外な反応を示した。
    
    金のわらじを履いてでも掴まえた奥さん よかったよかった
    (ちょっと、あんたの奥さんとの出会いはどうだったのさ)。
      さあ 想像にお任せ。(うまく逃げたわね) ぐっさんハイ