エジソン少年は「1+1=1」と言っている。
ベートーヴェンは耳が聞こえなくなってから、あの有名な曲を作曲して、ラフマニノフは『ピアノ協奏曲』が批判され、精神を病んでから作曲した『ピアノ協奏曲2番』が絶賛されている。
チャイコフスキーは愛人(男性)が死んでピアノ協奏曲を作曲している。
そしてルノアールもセザンヌも批判されて、絵が売れない極貧の状態で、あの有名な絵を描いている。
天才は負の環境から生まれている。
そんな因果関係は常識では理解できない。
というか!
才能は敗者からの復活というプロファイリングも必要なのかも知れない。
そんな視点は日本の教育にはなく、日本の教育は「教科書は正しい。」とだけ教えて、天才達を敗者として見る視点が欠けている。
ラフマニノフもチャイコフスキーの評価をされる立ち位置にいても、チャイコフスキーは同性愛者として否定され勝者にはなれない。
もしも彼らが100%評価される、そして勝者であれば、気持ちは満たされて、空想は常識をブレイクスルーしていくこともなく。
良くも悪くも、彼らは常識人だったのかも知れない。
圧倒的な[負の環境]だからこそ、それがイヤで、そこからブレイクスルーしていく。
病気になったり、批判されたり。
[負の環境]と才能には因果関係があるのかも知れない。
しかし!
天才達は敗者復活している。
それは本人が変わったのではなく世の中が変わっている。
欧米人は周囲を出し抜こうとしている。
欧米人は周囲と同じ連想ゲームをしながら、周囲と同じものを積み重ねていく思考に弱点がある。
「あの投手は球持ちが良い。」と誰かが言うと。
日本人は自分だけ置いていかれるのが怖くて、周囲と歩調を合わせて、それが考える共通の基盤になっていく。
ヒントは、誰かが気付けば良い。
そんな他力本願な思考が可能で、皆で同じ意見を積み重ねながら、順序立てて物事を考えている。
群れる動物にとって仲間外れにされると生きてはいけず、仲間外れを最も怖がっている。
誰かが「このピッチャーは球持ちが良い。」と言うと、それがどうして打てないのか、どうすれば、そんな投げ方ができるのかという解に繫がっていく。
誰かが気付けば良い。
順序立てて考えれば、比較的簡単に理解できる。
日本人は、そんな他力本願な思考で考えている。
群れる動物をイメージしてプロファイリングすると、日本人の思考力の源泉が見えてくる。
というか!
才能は敗者からの復活というプロファイリングも必要なのかも知れない。
小学校ではグループ学習を取り入れている。テストで生徒に格差をつけるとグループ学習が難しくなってしまう。
むしろ!
多様化でグループ学習は機能してくる。
そして!
天才達は敗者復活している。
それは本人が変わったのではなく世の中が変わっている。
いまだに日本の教育に欠けているのが敗者復活かも知れない。