ピッチングマシーンからの150kmの速球は殺人的に速く感じる。
しかし!
投手は腕を振って投げるので、その腕の振りを付け足して、長く見れば、速さは緩和される。
ピッチングマシーンからの150kmの速球も、投手の投げる150kmも同じはずなのに、感覚的には、やはり違う。
これは[錯覚]かも知れない。
「錯覚でも良いんじゃない。」
感覚的なものは教えることはできないのか、
と言うと、
そうでもなくマニュアル化できる。
「こういう見方をしなさい。」と教えることはできる。
「調子が良いって、どういうこと?」
具体的に伝えることができそうもない[錯覚]のように、
教えることが、できそうにないものでも、
ちゃんとマニュアル化できて。
それを教えると!
それは、誰にでも、できるのかも知れない。
ボールが、ゆっくりと見えるのは[錯覚]だけど・・・。
そんな見方は、意外と、マニュアル化できる。
できそうにないけど、できるのかも知れない。
ベートヴェンは耳が聞こえなくなってから、あの有名な曲を作曲している。
どうしてもピアニストは、ピアノの音色に囚われてしまう。
そこが空想の限界点になってしまうけど。
しかし!
ベートヴェンは、もう耳が聞こえない。
もう空想するしかない。
そんな空想はピアノの音色という枠を超えていく。
誰しも、ヒトの話を聞いてると、言葉としては言ってないけど「本音は、それか!」と感じることがあって、言葉とは裏腹な本音は、ちゃんと伝わってくる。
ヒトの空想や本音も、空気を読む日本人には伝わる。
まるでテレパシーのように[さっして]理解してくれる。
ゆっくりと感じる。
そんな感覚的で、教えたり、教わったりできそうにないものも意外と伝えることはできる。
「調子が良いって、どういうこと?」
もっと具体的に説明できると、マニュアル化できるのかも知れない。