サムが「僕の声が聞こえるのかい?」と尋ねると、モリーは静かにうなずく。
そして映画の最後にサムが「また会おう。」と言うと、モリーは「了解。」と答える。
もしかして!
この映画の脚本家は大切な人を亡くした経験があったのかも知れない。
そんな経験のある人にしか書けないセリフで。
脚本家の中では、彼女は、まだ生きている。
何気ないセリフだけど脚本家の寂しい思いが伝わってくる。
この映画の最後にシーンが印象的で、それは映画を見た人によって体験が違うので、それぞれの解釈をされていく。
ピカソの絵は見ている人の中で芸術になっている。
イノベーションを言う時!
ピカソの抽象画は壊れているし。
ピカソと彼の絵を見て芸術と感じる人の、どちらが才能なんだろう?
どちらがイノベーション能力なんだろう?
天才ピカソだけではイノベーションは成立しないのかも知れない。
天才と言われている画家は少数だけど、それを見て芸術と感じる人は大勢いる。
そんなバランスが重要なのかも知れない。
そして「古池」や「蛙」に、それ以上の意味を想像する日本人も大勢いる。
芭蕉の俳句は科学ではないし、芭蕉の俳句を読んで、それ以上の意味を感じるのも科学ではない。
イノベーションの、ほとんどは架空の世界で、科学ではないので、テストには馴染まない。
科学的な思考力と非科学的な思考力に分けて考えた方が良いのかも知れない。
答えは科学的でないと意味がないけど、答えを出す思考力は科学ではないのかも知れない。
そして!
『不思議の国』は空想を膨らませることに価値があって、学者の空想は科学ではなく、理解するものでもなく便乗すれば良い。
学者達は空想力で考えている。
その空想力は答えを出すための[手段]で、そんな空想のような非科学的な思考力も一定量必要としている。
教科書という『不思議の国』でテストをする日本の教育は間違っている。
英語はyesなのかnoなのかハッキリと答えないといけない。文法的にも結論から話始めないといけない。
その点、日本語は[あいまい]で、聞き手は[さっして]想像を付け足して理解してくれる。
むしろ!
空想のような非科学的な思考力に感化されやすいのは学習能力と言っても良いのかも知れない。
想像は確定ではなく、膨らんでいく。
映画『ゴースト・ニューヨークの幻』の中で、一人ぽっちのモリーがいる。一人ぽっちのモリーに感情移入するのは日本人だけで。
そして!
そんな、一人ぽっちのモリーに感情移入する日本人は大勢いる。
[アラン・チューリング]で検索すると。
彼は同性愛者であると同時に、発達障害(特にASD:自閉症スペクトラム障害)の特性を持っていたと言われています。
独自の視点で、ものを考え続けている。
周囲の目を気にしないのは障害が原因で、欠点と才能は何処かでつながっている。
ただ!
欧米では破壊から創造まで、一人で完結しないといけない。
アランチューリングは、同性愛者であると同時に、発達障害(特にASD:自閉症スペクトラム障害)で壊れている。
イノベーションは障害のある天才からも生まれてくる。
そして!
壊れたピカソを見て芸術と感じる人は大勢いる。
壊れた天才は少数いれば良い。
日本人は理系ではなく、文系で。
果実を得るのは、日本人かも知れない。