埼玉県の川口市には、すでに2000人のクルド人が住んでいるらしい。
クルド人が騒ぎを起こしているというニュースを見ると、日本も移民問題を抱えてしまった。
クルド人がTV番組に出演して、説明をしているのを聞いていると、彼らは、もう20年以上も川口で暮らしているので日本語も話せて、話している様子を見てると「我々の気持ちを察して、理解して」と言ってるように聞こえる。
彼らは日本語で考え、日本語で話しているので、日本語はクルド人を日本人化させている。
「どうか気持ちを[さっして]理解して。」と言っても、それが通じるのは日本人だけだと思っていたけど、日本人だけではなく、日本語だけなのかも知れない。
日本語は[あいまい]な言語で、そして感傷的な言語で、日本語で話すとクルド人も、すっかり日本人になっている。
血の気の多いクルド人も、喧嘩の嫌いな日本人になっている。
日本語で話してると「自分達の気持ちを察して・・・。」と、そんな心理状態になるみたい。
「古池」や「蛙」には、それ以上の意味なんかないのに、それ以上の意味を空想してしまう。
会話だと速答しなければいけない。
しかし!
俳句は平面という二次元の世界だけど、何度も何度も推敲を重ねて・・・。
時間をかけて詠んでいるので余韻を残す。
空想を誘う文章になっている。
じっくりと、時間をかけて・・・。
四次元化することで。
考えてから話す習慣が身に付いていく。
同じ脳で考えているので、別の話題も、つながっていく。
関連付けられていく。
そのうえ日本語で話していると、連想が働いて、フッと気付くことも多い。
日本語は、そんな言語で。
田淵幸一も英語ではなく日本語で言えば、フッと気付いて、周辺にある知識は、一つに繋がっていったのかも知れない。
同じ言葉で考えていると、同じイメージしか思い浮かばず、そのまま固定概念化してしまう。
言い方を変えることで気付くこともできる。
というか!
会話では考える時間が無い。
しかし!
感じたことを活字化すれば、いちいち言葉を吟味しながら書くので「う~ん。」「なんか違うなぁ~。」と、何度も何度も推敲を重ねて、俳句のように時間をかけることになる。
会話だと、キャッチボールが早く、言葉を吟味することはないので。
やはり会話ではなく!
活字化することで気付けたのかも知れない。
日本語は「 」余韻を残す言語で、気持ちが尾を引いてしまう。
「古池」や「蛙]は、ずっと待っててくれる。
日本製の[チャットGPT]は、アメリカ製の[チャットGPT]とは別物かも知れない。
いかに論理的で正確な文章なのか、ではなく、いかに行間を読めるか、いかに読者に気付きを与えることができるかが重要になってくる。
俳句は、何度も何度も推敲を重ねると、ありふれた言葉にも感情が、こもってくる。
「行間を読む」で検索すると。
文章には直接表現されていない筆者の真意をくみとる。
日本語は[さっして]理解する、想像を誘う言語で。
日本製の[チャットGPT]は行間が読めるためにも、案外!意味合いに幅があって、自由に解釈できる文章の方が、想像を誘うことができて。
そして!
ずっと待っててくれる文章の方が良いのかもしれない。
日本語は会話では余韻を残し。
活字化すると、何度も何度も推敲を重ねる。
日本語は考えるための言語なのかも知れない。
そうとしか解釈できない、正確に伝える、アメリカ製の[チャットGPT]とは別物かも知れない。