TV番組での小学校の授業風景で、児童は疑問や課題を提示された時、すぐに机を揃えてグループ学習に切り替えて課題を解決しようとしていたけど。
「自分には発言できないなぁ~。」と感じる。母親がキャッチボールが下手で、自分が意見を言っても上手く受け止めてくれず、ボールはバックネットの方に転がって、話すたびに言葉は意味を失っていく。
ある小学生の入賞感想文を読んで美しい文章に驚かされたことがあって、きっと児童の母親が話を興味深く聞いてくれるんだろう。「もっとお母さんと話したい。」という思いから、それを表現する言葉が必要になって、語彙が豊富で美しい文章の書ける子に成長したのかも知れない。
自分を評価してくれていたり、話に興味をもってくれる人と話してると、自然に言葉は思い浮かんでくる。
[ひらめき]や気付きも生まれてくる。
それとは反対に、自分を嫌ったり軽蔑する人物に対しては気が重く、敬語も使いたくないし、かといってケンカ腰に話したくもなく、どんなしゃべり方をしていいのか分からないし、言葉も思い浮かばない。言葉を失ってしまう。
[チャットGPT]は文章を読む人に「きっと分かってくれる。」と自尊心をくすぐると、読者の[ひらめき]や気付きを誘って、そして!そこからの連想も働いて、思考の手助けをしてくれるのかも知れない。
小学校のグループ学習をしている様子を見てると「自分には発言できないなぁ~。」と感じる。
自分とは対照的に、美しい読書感想文を読んでると、興味深く話を聞いている児童の母親を想像してしまう。
やはり母親次第だと思う。
ペーパーテストに、なんの意味があるんだろう?
マニュアル通り働くことを要求される技術者には、テストは有り得るのかも知れないけど。
子供の頃からテスト漬けにして[×]に対する強迫観念を植えつけてしまうと[×]を恐れて、教えた通り答えるイエスマンにしてしまう。
もしも低い点数をつけられると、そんな子は、皆の前で、もう優等生的な発言はできない。
語彙の貧しい子にしかなれない。
反対に高い偏差値で自尊心が満たされると現状維持を望んでイノベーション(技術革新)が生まれてこない。
どっちにしても!
ペーパーテストが生徒の[ひらめき]や気付きを育てるとは思えない。
ただ!
日本人には個人差がなく、感性も似ていて、そして波長も似ていて、チャンネルが同じだと通信はつながって、知識や気付きを共有している。
誰かが気付けば良い。
日本人は文系で、そして感傷的で。
そして教え合う美徳があるのは、日本だけで。
教え合うグループ学習から、お互いに刺激し合ってイノベーションは生まれている。
理系は科学と非科学の境界線を超えていくことが難しい。
その点、文系は『不思議の国』のように、それはSFのように、科学と非科学の境界線を、いとも簡単に超えていく。
理系はSFのように科学の境界線を超えることができず、空想力に限界を見せてしまう。
日本人は文系だからこそ、ペーパーテストは有り得ない。
テストが有り得るのは、模範解答を速答するAIだけかも知れない。
イノベーション(技術革新)を求めるのなら、現状維持のペーパテストに意味はない。
小学生の美しい文章に驚かされたことがあって、きっと児童の母親が話を興味深く聞いてくれるんだろう。「もっとお母さんと話したい。」という子の思いを感じる。
日本製の生成AIは、そんなAIかも知れない。