ユダヤ人に学者や芸術家が多いのも、他人の持論を自由に解釈することで難しくは感じてないのかもしれないのかも知れない。
一本足打法も正しく理解しようとすると「意味が分からない?」と感じてしまうけど、周辺にある知識で自由に組み立て直すことで、気付きを得ることができる。
どうせ!
進化すれば変化するし。
既存の科学は、誰かの持論に過ぎない。
その誰かの持論は、空想や作り話にも関わらず、堂々と持論を展開している。
自由な空想から生まれる、自由な作り話がイノベーションで。
そして!
ユダヤ人に学者や芸術家が多いのも、他人の持論を自由に解釈することで、便利に利用できるのかもしれない。
知り得る知識や他人の意見を総動員して『王貞治物語』を書いていると、フッと気付く。
「作り話なら、誰でもできるんじゃないの。」
正しく理解しようとするから「意味が分からない?」と難しく感じてしまう。
ルイス・キャロルは個人的な事情で、ついつい遠く離れた『不思議の国』で時間を過ごしている。そんな妄想は楽しくて、難しくは感じていない。
彼は数学者で数学でも、同じ様に「こうなら良いのに。」と、求める答えがあって、答えから考えている。それは願望で、やはり難しくは感じていないのかも知れない。
ユダヤ人にも安住の地が必要で、正しく理解しなければいけないという強迫観念はなく、彼らは希望の地を空想しているのかも知れない。
我々にとって、数学が難し過ぎるのは、正しく理解しなければ意味がないという強迫観念があるからで。
我々には、数学の現状維持は難し過ぎる。
その点、ユダヤ人にとって現状維持は最悪で、案外!自由に考えているのかも知れない。
ユダヤ人が他人の持論[プランA]を自由に解釈するのは、他人を信じていないからかも知れない。
偏差値大学からイノベーションが生まれてこないのは、答えが出て、すでに終了しているので考える必要性がなく、感受性も思考も停止しているので、難しく感じてしまう。
というか!
他人の意見を必要以上に権威づけて。
他人に思考に依存して、自由に空想することもなく、ここでも思考は停止している。
ユダヤ人は他人を信じる気はなく、他人が評価されても意味がなく、他人の意見を過大評価することもなく。
他人の意見を鵜呑みにすることもなく・・・。
しかし⁉
ヒントは求めているので思考のバランスがとれているのかも知れない。
日本人の会話は、能や日本画のように余白が多く、明確な結論がない会話をしている。
しかし!
日本の教育は「教科書は正しい。」と教えて。
結果的に!
他人の意見を過大評価させて。
それを鵜呑みにさせて。
それを記憶させて。
それを固定概念化させて。
そして思考を停止させている。
正確な答弁を求めるのなら[チャットGPT]に丸投げすれば良い。
もしかして!
正確に答えるのなら[チャットGPT]には知能がなくても良いのかも知れない。
正解のある日本的な教育は、やがてAIが凌駕していくと、日本の教育も変わらざるを得なくなってしまう。
能や日本画には多くの「 」余白があって、しかも[解]はなく、見てる人に「自由に解釈して」と言っている。
正解はなく、自由な解釈を求めていることに意味があって。
数学でも他人の考えた数式は意味が分からない。
しかし自分で作り直せば、意味が分からないということは有り得ない。
どうせ!
応用編で作り直すのだから、理解の段階で、一本足打法のように作り直せば、その先も、自由に考えることもできる。
そのためにも!
一本足打法のように、周辺の、関係なさそうな知識が、自由な作り話の役に立って、数学でも、文系の[チャットGPT]の出番かも知れない。