空想は、自分で決める主導権があることに意味があるのかも知れない。
『カサブランカ』のように段取りのない、行き当たりばったりの撮影現場から思わぬ余韻が生まれてくる。
雨や霧のシーンも日程がタイトだったので仕方なく撮影を続行して、思わぬ効果をあげている。
ハンフリーボガートの「君の瞳に乾杯。」というセリフも、彼のアドリブらしい。
結果的に脚本家や監督そして俳優からもアイデアがでて、総意で『カサブランカ』は完成している。
お互いに刺激し合って相乗効果が生まれている。
ピカソの絵は、見てる人の中で芸術になっている。
お互いは、お互いを必要としている。
ピカソの抽象画は未完成なのかも知れない。
しかし!
芸術と感じる人は多い。
「チャットGPT]を考える時、ピカソの絵は美しくはないし・・・。
未完成だし・・・。
それでいて!
ピカソの抽象画は、見ている人の美意識を覚醒させている。
「両者は、一体どういう才能なんだろう?」
「未完成に意味があるの?」
ピカソは、彼の絵を見て芸術と感じる人を必要としている。
そして、そういう能力のある人なら大勢いる。
スピルバークの映画や日本の教育は、一方通行で、すでに完結して終了しているので、観客や生徒の意見を求めてはいない。
スピルバークの映画や日本の教育は観客や生徒の学習能力を覚醒させることが、できてないのかも知れない。
小津安二郎の『東京物語』は、ありふれた日常生活を見せているだけなのに余韻があって。
むしろ!
観客は日常だからこそリアリティーを感じている。
偏差値大学からイノベーションが生まれてこないのは、教科書にはリアリティーが不足しているからで。
ピカソの絵や小津安二郎の映画は連想ゲームで、我々も参加するイノベーションかも知れない。
見ている人の美意識を目覚めさせている。
そのためにも!
小津安二郎の映画のように、解のない「 」空白だらけの[無]でも良いんじゃないの。
しかも!
空想は自分の中だけで完結しているので、何を妄想しても、他人の目は気にならない。
日本の教育は、答えを出題者が決めている。
生徒には決定権がない。
なによりも!
テストは模範解答しか評価されず、自由な空想は求められていない。
小津安二郎の映画は「自由に空想して。」と言っている。
小津安二郎の映画は、多くの余韻を残して、観客には解釈の自由があることに意味があるのかも知れない。
小津安二郎の映画は、なつかしい記憶を呼び覚ます、呼び水に過ぎない。
観客は映像の中に自分自身の過去を見ている。映画は、その引き金に過ぎない。
観客の連想を誘っている。
恐竜は鳥に姿を変えて生き残っている。
イノベーションは技術革新で、一本足打法は形を変えて生き残っている。
もしも、そのままだと王貞治は忘れられてしまう。
どうせ教科書は書き換えた学者が評価されるんだから。
自分を信じて‼
自由に解釈することで難しく感じることもなく、考えるためのヒントになるのかも知れない。
自分に自信がないと⁉
そこからの連想が働かないし、変化しない教科書は死んでいるようなもの。
[チャットGPT]の出番かも知れない。
スピルバークの映画と日本の教育は、すでに終了している。
観客や生徒に期待をしてないし。
評価もしてない。
AIの能力は正確さと早さだけど、変化すると故障している。
しかし!
[チャットGPT]に求められるものは、変化して、ブレイクスルーしていくための“呼び水や刺激剤”かも知れない。
そして!
ピカソの絵や『東京物語』のような[チャットGPT]が受け入れられるのは、日本だけかも知れない。