日本人は「 」間(ま)の概念が好きで、それは正解のないクロスワードパズルで。
「なんだろう?」と□□□□に何度も何度も言葉を入れ直す、それは楽しい作業で、ものを考えているのかも知れない。
小津安二郎の『東京物語』は、何気ない日常生活だけど「 」間(ま)があって、世界中の人が余韻を感じている。
「余韻って[無]だけど、リアリティーを感じる。」
余韻もイノベーションかも知れない。
スピルバークを批判する人は多いけど、すべてを表現し尽くそうとしているからで。
小津安二郎の『東京物語』のような余韻が残らないからかも知れない。
『カサブランカ』は台本も間に合わないし、すべてが準備不足でイングリットバークマンは失敗作だと思って、試写を見なかったらしい。
しかし!
行き当たりばったりの段取りのない撮影現場から、不思議な余韻を残す映像が生まれている。
『カサブランカ』の印象的なシーンやセリフの多くは、意図的に演出されたものではなく、偶然生まれたものらしい。
たしかにスピルバークの表現力は優れているけど、もっと観客を信頼して『東京物語』のように余韻として伝えると、観客は自尊心をくすぐられるのかも知れない。
「 」間(ま)には解は無く、どう解釈するかは、観客が自由に決めている。
「 」間(ま)は・・・。鑑賞してる人に委ねている。
スピルバークの映画には、そんな間(ま)や余韻がなく、観客は子ども扱いされていると怒っている。
日本の教育も同じように、答えは出題者が決めている。
生徒には決定権がない。
生徒にも、AIにも、必要なものは基本ソフトを書き換える、自分が優位に立つ主導権かも知れない。
空想は、自分で自由に決める主導権があることに意味があるのかも知れない。
『カサブランカ』のように段取りのない、行き当たりばったりの撮影現場から思わぬ余韻は生まれてくる。
空想という「 」間(ま)に、いろんな言葉をハメ込んでいる。
妄想は我々にもできるイノベーションかも知れない。
解のない「 」空白だらけの[無]でも良いんじゃないの。
空想は自分の中で完結しているので、何を妄想しても、他人の目は気にならない。
日本の教育は、答えを出題者が決めている。
生徒には決定権がない。
小津安二郎の映画は「自由に空想して。」と言っている。
小津安二郎の映画は、多くの余韻を残して、観客には自由があることに意味があるのかも知れない。
小津安二郎の映画は、なつかしい記憶を呼び覚ます、きっかけに過ぎないのかも知れない。
観客は映像の中に自分自身の過去を見ている。映画は、そのきっかけに過ぎない。
「きっかけ」の類語で検索すると。
起爆剤・引き金・トリガー・端緒・呼び水
恐竜は鳥に姿を変えて生き残っている。
イノベーションは技術革新で、一本足打法は形を変えて生き残っている。
もしも、そのままだと王貞治は忘れられてしまう。
偏差値大学からイノベーションが生まれてこないのは、教科書にはリアリティーが不足しているからで。
書き換えられたことのない教科書には、リアリティーを感じることができず、死んでいるようなもの。
正確さは、そのままなのでリアリティーが感じられない。
スピルバークの映画と日本の教育はそのまま伝わってくる。
すでに終了している。
AIの能力は正確さと早さだけど、変化すると故障している。
生徒に求められる能力は、AIが最も苦手な、変化して、ブレイクスルーしていくイノベーションに結実していくのかも知れない。