アメリカの警察官は、高級車に乗ってる黒人は犯罪者か麻薬の売人という目で見ている。
そんな先入観や色眼鏡で見ていると、そう見えるもので、何の先入観もなく見てると気付かずスルーしてしまう。
[気付き]は才能や能力というよりも、偏見だったり、先入観で見ているだけかもしれない。
人は理性よりも感情の方が勝っている。
しかも「嫌い。」という否定的な感情で人を見ているのは、どうみても偏見で、欠点としか思えない。
高級車の乗ってる黒人が犯罪者に見えるのは「人種差別も、かなりのものだな。」と感じる。
黒人に対する同情心が欠けている。
黒人を嫌って、黒人を偏見で見ている警官が黒人を理解するとは思えない。
やはり!
感情よりも理性の方が勝った人にしか理解はできないけど。
しかし!
警察官には同情心も偏見も、両方が必要で。
そんなバランス感覚が必要で。
欠点としか思えない[負の感情]が気付きに繋がっている。
学者には破壊的な一面と創造的な一面があって。
『不思議の国』のようにナンセンスで非科学的な一面もあって、そのためにも学者の個人的な事情を知ることで「そういうことか。」と理解できる。
先入観で見てるのは才能ではなく、むしろ!欠点で、そして誰にでもできることに注目すべきなのかも知れない。
欠点で「誰にでもできる。」
だからこそ!
有名な学者には破壊と創造という矛盾した考えや「〇〇障害児」だったという致命的な欠点もあって「どういうことなんだ?」と謎に感じるけど、意外と分かりやすく。
彼らには優れた才能もあるけど、わずかな欠点・欠陥が致命傷になっている。
むしろ「欠点・欠陥は必要なんだなぁ。」と感じるのかも知れない。
東京大学には「〇〇障害児」はいない。
「教科書は正しい。」と信じて、教科書を書き換える学者が育たない。
欠点や個人的な事情という、才能ではないものを、どうやってテストするんだ?
むしろ日本的であれば良いのかも知れない。
先生が「氷が解けたら、何になりますか?」と尋ねたら。
ある児童が「春になります。」と答えたという。
この子は理科の質問に、国語で答えている。
国語で考えれば、SFのように科学を超えていく空想はできる。
日本人は文系で、科学者というよりもエッセイストで、フィルター越しに見たり、先入観で見てると気付くことが多い。
特に、感情には[負のエネルギー]があって「好き」よりも「嫌い」という否定的な感情や偏見で人を見てると、そう見える。
「好き」という[正のエネルギー]よりも「嫌い」という[負のエネルギー]の方が強い。
そして!
論理よりも感情の方が[感じる力]は増していく。
創造は破壊から始まっている。
やはり「嫌い」という[負の感情]は個人的な事情を知ると「そういうことか。」と分かりやすく。
矛盾は、分かりやすいのかも知れない。
人の感情は非科学的だけど、学者の感情として捉えると理解は難しくはなく。
あるいは理科も国語で考えれば、それは日本的で適応できるのかも知れない。
なによりも[チャットGPT]は、その文科系コンピューターで。
そして『和を以て貴しとなす』という日本人のバランス感覚で、感情は次第に[正のエネルギー]を増していくので、日本の文化のように、答えを求めず、ずっと待ってれば良い。
文章の間違いなら、人は簡単に訂正できるし。
そして日本語なら、非科学を受け付けない理科を、国語で考えることも簡単にできるはず。