[チャットGPT]は平気で嘘を言うと言われているけど。
人は年をとると、ついつい「あれ、あれ・・・。」「なんだっけ?」と人や物の固有名詞を忘れてしまうけど、話を聞いている人は、それがなにか想像できて、ちゃんと会話は成立していることが多い。
人も、いい加減な話をしているけど。
ただ!
人は文節の欠けている部分を付け足して理解している。
日本画は余白が多く。
能は言葉数が少な過ぎる。
日本の文化は表現が足りない。
俳句は17文字しかなく「古池」や「蛙」に、それ以上の意味なんかないのに[さっして]理解する日本人は言葉を付け足して、その時、過去の記憶や情感も思い出してしまうのかも知れない。
車のデザイナーは「最後の一筆は表現せずに残しておく。」と言っている。
見てる人は「うん?」なにか感じるけど「何だろう?」と欠けている部分に想像を付け足して見ていると、美意識も引き出されてくる。
100%表現しない方が良いのかも知れない。
子供の頃、よく読んだ漫画やおとぎ話には非常識で非科学な面白さがあって、人を空想の世界に引き込んでいく。
もしくは、引きこもっている子を連れ出していくのかも知れない。
ピカソの絵は見てる人の中で芸術になっている。
「壊れた画家と、その絵を見て芸術と感じる人の、どちらが才能なんだろう?」
「No.2がNo.1を凌駕しているのか?」
日本画は余白が多く。
能は言葉数が少なく。
観賞している人の美意識を目覚めさせている。
No.2がNo.1を凌駕しているのかも知れない。
日本の文化は鑑賞する人に解釈を丸投げしてくる。
日本人は、むしろ説明不足なものを見て、自分自身にプレゼンテーションをしているのかも知れない。
「古池」や「蛙]に余韻のようなものを感じて、まだ何かあるような気がする。
日本人は科学者というよりもエッセイストで。
[チャットGPT]という文系コンピューターとの相性が良いのかも知れない。
一本足打法を見て、なにかあるような気がすると・・・。周辺にある知識と結合していく。
何年か前のNHKスペシャルで「数学者は宇宙をつなげるか?abc予想証明をめぐる数奇な物語」で「数学は異質なものを、同じものとみなす」のが数学的な考え方だと言っている。
バットスィングと日本刀の振り方は異質だけど、同じものとみなすことで[内から外]という振り方に気付いて、異質なバットスィングと日本刀の振り方は、一つに合体している。
ピカソの絵は、見てる人の美意識を目覚めさせて芸術と評価されている。
「異質なものを、同じものとみなす」
これは数学的な考え方の原理・原則らしい。
というか!
それが人の思考力かも知れない。
異質なものを無理やりにでも関連付けてみれば良いのかもしれない。
というか!
バットと日本刀を関連付ける。
それは!
異質なものを同じものと、みなすことが[考える]という作業かも知れない。
異質なものを同じものとみなして、フッと気付く。
これは[チャットGPT]にはできない。
コンピューターは進化して、記憶力や正解のあるもので、人を凌駕している。
人はピカソの壊れた絵を見て、美意識は目覚めている。
人もAIも、いい加減なところがあるけど。
実は!
人もAIも、No.2がNo.1を凌駕しているのかも知れない。
