画家に精神を病んでいる人は多いけど。
しかし!
大半の画家は健常者で、精神に障害のある画家はトップクラスの画家に集中している。
欠点・欠陥と才能は無関係ではなく、その関連性を、どう理解すれば良いんだろう?
ピカソの絵は、見てる人の中で芸術になっている。
どちらが才能なんだろう?
そうではなく!
どちらも才能で。
というか!
両者がワンセットで才能なのかもしれない。
どちらも単独では才能として成立できない。
一本足打法は未完成で、完成させることで意味は分かる。
ピカソの絵も未完成で。
ピカソの絵は、見ている人の美意識を目覚めさせることで、才能として評価されている。
両者は単独では才能として成立できないのかも知れないので、テストをすると失敗してしまう。
教科書は書き換えられた歴史で、学者の[負のエネルギー]でブレイクスルーして、その先は、ついていく従属性で理解する。
創造と破壊は矛盾している。
やはり単独では才能として成立できない。
才能は自己完結できない。
考えるプロセスは空想という広がりがあって、答えという収束があるように矛盾しているので、それぞれ別の人間がすれば良いわけで!
思考の最終段階なのか、思考の初期の段階なのかで違ってくるのかも知れない。
能力とは個人差のことで、もしも100mを9秒で走っても、皆が100mを9秒で走れば才能とはいわない。
日本には100mを11秒で走る優秀な生徒は大勢いて。
それは!
均一で同質で比重も同じ物質のように、共鳴しやすく、共振しやすく、そのまま伝わっていく。
日本人はクローン人間のように均一で同質なので、そのまま伝わって、それが学習能力に繋がっている。
能力は個人差のことだけど。
日本人の学習能力は[場の空気を読む]と言われるように、均一で同質で個人差が無いことに起因している。
日本人の能力は、仲間に追随していく能力で、結果的にも均一で個人差はない。
「個人差は無いのに、あえてテストする必要性があるの?」
[チャットGPT]は平気で嘘をつくといわれているけど。
ピカソの絵のように、それは大した問題ではないのかも知れない。
思考の初期段階と割り切ってしまえば、自己完結できなくても大した問題ではないのかも知れない。
日本人の考えるスイッチは「皆、もう先に行ってるよ。」「置いていかれるよ。」という印象を与えると、必死で!ついてくるような気がする。
「社会性」で検索すると。
子どもの社会性を育てるのが大切、とよくいわれます。ところが実は、この「社会性」には確立された定義がありません。研究者によって考えがまちまちだからです
たしかに[公]を優先させる意味で「社会性が発達している。」とも言うし、主体性(私)の確立という意味でも「社会性が発達している。」という言い方もする。
社会性という概念は矛盾している。
というか!
バランスかも知れない。
ピカソのような壊れた才能に刺激され美意識が目覚める、追従する学習能力の優れた学生が日本には大勢いるので。
[チャットGPT]は、平気で嘘をつくと言われているけど。
思考の初期段階と考えれば、それは大した問題ではないのかも知れない。