そもそも、なんのためにテストをするの? 20 | エイジのブログ

エイジのブログ

ブログの説明を入力します。

そもそもルイス・キャロルの空想力は非常識で非科学的で、数学者の発想とは思えない。

 

しかしクラッチを踏んでからギアチェンジが出来るように、学者には一旦!常識から切り離す空想力は必要なのかも知れない。

 

人は実現不可能な夢みたいな事を妄想することがあって、しかしそんな妄想は現実逃避で現実から切り離そうとして妄想していることが多い。

 

それは、現実を見たくないという[負のエネルギー]で妄想していることが多い。

 

ルノアールもセザンヌそしてピカソの絵は壊れている。

「良い感じ!」に壊れていることに意味があるのかも知れない。

 

そして、そんな絵を見ている人の中で芸術になっている。

 

壊れた絵を見てると、クラッチを踏んだように切り離されていく。

壊れた絵と空想は無関係ではないような気がする。

 

日本の教育の欠点は、そんな常識から切り離される空想力は必要なく評価もされない。

 

たしかに固有名詞や現象には名前がついていて、その名前は一つしかなく、名前のついているものならテストは可能かも知れない。

 

そして東大王のようなクイズ番組を見てると記憶力だけで十分で、現実感から切り離すクラッチは必要ない。

 

偏差値大学では模範解答しか評価されず、うさぎやトランプがしゃべっている!そんなルイスキャロル少年の空想は「アホな子」でしかない。

 

なによりも偏差値型の優等生は、英語はしゃべれなくても、数学は意味を知らなくても、国語は文章なんか書かなくても、高得点をもらって気持ちは満たされて現状維持を願う心理から「おかしい?」という疑問を感じなくなってしまう。

 

そして記憶することで釘付けにされて[ひらめき]のように切り離されていくこともなく、その先を空想する事も無い。

 

日本の数学教育は計算だけなので、マニュアル通り、そして寸法を合わせないと正解が即答できない。

 

日本の教室では[空想]のように常識とはピントも寸法も合わないものは封印した方が良い。

 

特に、小学校のような基礎教育では、もう覚えるしかなく、疑問を感じることは頭の悪さでしかない。

 

小学校では、常識に寸法もピントも合ってない児童は「アホな子」と言われてしまう。

 

常識に寸法もピントも合ってない空想力には価値がない。

 

「なぜ?」「どうして?」という疑問だらけのトーマス・エジソン少年は小学校を退学させられてしまった。

 

小学校では、飲み込みが早くて適応力と記憶力さえあれば十分で、そんな模範解答を答える子は[賢い子!」と褒められる。

 

日本では、特にそういう傾向がつよく、常識外れな[空想力]は必要ない。

 

しかし教室でタブレットPCを使うようになって様相は一変している。

 

知識の暗記は、もう重要ではない、計算もPCがやってくれる。

 

知識を、どう解釈するのかが重要になっている。

 

そして大学入試が記述式に変わると模範解答だけでは面白くはない。

 

むしろ『コロンボ』のように謎解きをして、それを証明する能力を求められていくのかも知れない。

 

釘付けにされる記憶力は、もう重要ではない。

 

それとは反対に「なぜ?」「どうして?」という疑問だらけで頭の中を整理整頓出来ないトーマス・エジソン少年や、うさぎやトランプがしゃべって、まるで、おもちゃ箱をひっくり返したようなルイスキャロル少年の空想力には点数のつけようがない。

 

日本では鉄腕アトムや鉄人28号というアニメを見て育っているのでロボットの研究者が多くロボット産業が発達しているように、最近では『M1』を見て育った子は、むしろ良い感じに壊れている事に抵抗感はなく、評価のされ方も、そんな子は「何か起きそうで面白い!」と評価され「そもそも才能をテストすること自体が間違っているんだ!」という風に変わっていくのかも知れない。