欧米人にとって才能は、他人よりも優れているという個人差だったり、他人がまねのできない希少価値だったりする。
才能は周囲とは異質で、周囲との共通性は無い。
ただし[AI]まで進化すると、それは自動運転車のように大量生産され、すでにルノアールの複製品ように希少価値はなくなって、価格は随分安くなっている。
日本人は一人で考えるのが苦手で周囲に合わせることで[共通の基盤]ができて、その上に誰かが気付くと知恵を積み重ねていく。
日本人は常に同じ様に進化して、個人差がない。
しかし欧米では才能は周囲から独立して孤立していて、そして話の内容は100%説明しないと通じない。進化の過程を共有することは無理で、益々個人差はひらいてしまう。
その点、日本人は進化の過程を共有できて、個人差がひらかない[共存共栄]に日本人しかできない優位性がある。
そして日本語は[あいまい]で結構自由に解釈できて進化していくためには好都合!
何より日本語を多少違う意味で使っても日本人同士なら、ちゃんと通じる。
意見の中で価値観のような思いを込めて話すと、何となく通じる。
そしてそんな受身で主体性のない日本人から目新しい発想が生まれている。
誰かが[ひらめく]と一瞬の変化として感じて、常に周囲から[ひらめき]を得ている。
ただし、場の空気ばかり読んで主体的に行動しようとしない他力本願な日本人は、新しい[ひらめき]が偶然生まれてくるのを、じっと待つしかない。
日本人は皆で同じ方向を向いている。しかし自分独自の判断をしない日本人は、やがて行き詰まり、そして閉塞感は飽和状態に達した時、なんとなく反対方向に予感を感じる。
[反対方向]は日本人にとっては重要なキーワードで閉塞感の次にやってくる。
日本人は変わるまでに長い時間がかかって、しかし変わる時はアッという間に変わっている。
野球中継を見てると解説者が「反対方向に打て!」とか「玉持ちが良い!」とか説明不足な話を繰り返しているけど、どうも行き詰まり感があって、話はそれ以上進展しない。
他人の[ひらめき]を一瞬の変化として感じ取る能力は優れているけど、日本人は他力本願で自力に欠ける。
しかしそれは欧米人も一緒で、新しい発想は偶然生まれてくる。
大学入試が記述式に変わると、個人的な意見を書かなければいけない。そんな環境から偶然が生まれやすく、むしろ他人の何気ない一言から[ひらめき]を得る日本人に優位性が有るのかも知れない。
人は「どうして?」「おかしい?」と分からなくなって答えを探し始める。
むしろ才能は「分からない?」という行き詰まり感の方で、そんな時の[ひらめき]は他人の何気ない一言に過ぎない。
[AI]が思考力を進化させるためには「分からない?」と行き詰まって、他人の何気ない一言から[ひらめき]を得る、他力本願な能力が必要なのかも知れない。