自分で判断出来ない人がいて「どうしてなんだろう?」
判断といっても、いろんな判断があって偏差値型の優等生は模範解答を即答する!そのためには知識を鵜呑みにして、それを正確に記憶することが必要。
主観の入らない判断が必要!
それは爆笑問題の大田のように、個人的な感情が入ると模範解答という多数派の意見ではなく、むしろ少数派の意見で、それどころか彼は多数派の流れに感情的に反発している。
彼は少数派に属するという個人的な事情で、多数派の意見に反発している。
もう一方では、日本の教育はテストで生徒の能力を評価しようとするので、正解が必要になってくる。
そして採点の効率を上げるために、答えは論文ではなく単語になっている。
結果的にテストは、生徒の個人的な意見は必要ないものになっている。
もっとバカバカしいのは、模範解答なら教科書に書いてあるので必要ならそれを読めば良い、わざわざ古い知識を暗記することに何の意味があるんだ!
模範解答ではなく、むしろ人の欠点を見る方が分かりやすいのかも知れない。
自己分析は自分の、うまくいかない過去を見つめていることが多い。
考え事ばかりしている、それもくよくよと自分の過去を見つめている。
自分の意見とは挫折感だったり!感情的な反発だったり!主観そのもので「客観的な、考える動機付けって有り得るのか?」
考える動機付けは、その人の弱点や失敗に起因していることが多い。
日本の教育に欠けている点は「歴史は誰かが創ったもので、その先は自分で造りなさい!」という教育がない。
歴史は、一個人の歴史の集合体という見方が不足している。
答えを出すということは、探しても見つからない。自分で答えは創ることで答えは出せる。
イチローを見て!
自分の望むイメージを膨らまして完成度を高めていくことで学ぶことができる。
それは自分にとって必要な答えがあると、そう見えてくる!
イチローの進化形がイメージできれば、コツが見えてくる。
全て、自分勝手な作り話!
人の学習能力は、過去を見つめてヒントを得たり、未来を見つめてより進化した物をイメージすることで、正確に見つめている訳ではない!
正確さは現状維持で意味がない。
人の学習能力で、答えまで変化してしまうのでテストも意味がない。
人の学習能力は「こうなら良いのに!」という先入観で見れば、そう見えてくる。
「こんなストーリーが好き!」という方向で妄想をしている。
「客観的な学習能力って有り得るの?」