人間とは、心でも身体でもない。
では、その正体は?といえば、気だという。
では、その気とは何か?
それはエネルギーであり、慈悲という魂であり、本心良心という丸い綺麗な玉だと自分は観念している。
だから、日常も仕事も等しくこの魂、本心良心からのメッセージに従うのが良いのだろう。
ところが、コロコロと変わる心、苦痛を嫌がる肉体があるがゆえに人生は修行ということに行き着いていく。
つい個人的な欲望を優先し、くだらないことで感情的になり、後悔するように人間はできている。
本来は道具である心や肉体に逆に使われ、肝心要の魂という主人が寝てしまっている状態になる。
しかし、こうした失敗を経験せずして学びはない。
というより、こうした失敗こそが学びなのだ。
僕らは、多くを勉強会や本で学んだと思いこむ。
今日は貴重な話を聞いた、素晴らしいことが本に書かれてあって感動した。
しかし、それは学びではなく、知ったことであり、理会にまでは至っていないように思う。
それでも、この知ったということは非常に重要。
なぜなら、何をもって失敗だったのか?という感覚が身についているからだ。
これがなければ、失敗、後悔といったものがわからないし、わいてもこない。
たとえば、自分の仕事をさっさと終えて帰宅する。
これは、一見何の非もなく正解に思える。
ところが、同僚の仕事がなかなか終わらず、大変そうであったならどうだろう?
そこで(あいつは、無能だ)で終えるのと、(手伝ってあげよう)と思うのとでは雲泥の差だ。
勉強会や読書で(大切だな)と思った瞬間、身体や心を透徹してその思いは魂にアクセスしている。
その魂、本心良心、本来的な人間の気というエネルギーが発するメッセージが、後者なのだ。
ところが、人間は弱いもので面倒くさいから仕事を手伝わず、見て見ぬふりをして帰ってしまったりもする(笑)
でも、そこで忸怩たる気分を味わうことが、貴重な学びなのだと自分は考えている。
次にその学びを生かせば良いだけ。
仕事とは、大我に生きる自分をつくっていくこと。
他と自とを分けていた自分という我を大我に流し込んでいくこと。
日常や仕事の現場は、学びを実践に生かし、肚に落とし込める貴重な場なのだ。