思考停止。
何も考えないことが、思考停止と受け取られるようだが、どうもそうではないらしい。
思考停止とは、恐怖心、警戒心、不安感に囚われること。
人は何も考えなければ、恐怖や不安がわいてくるようになっている。
なぜか?
人類が生きてきた歴史がすべて脳の中に収められている。
生存本能から、大昔に経験した飢え、災害や戦争の恐怖を思い出すからと言われる。
ところが、これは今起きていることではなく、過去の記憶という幻想や空想。
とすれば、心を明るくしていくことが、「考えること」だと自分は捉えている。
考えることとは、未来は確定されたものではなく、変えられる可能性のある「今に気づく」ことでもある。
放っておくと悲観に陥るが、意思の力で楽観を取り戻す。
仕事上、いろいろな方と話をしていると、未来の心配をすることが当たり前と認識されている方が多いことに気づく。
でも、本当は、未来は人々の心の中にある想念によって形づくられていく。
将来の保障が心配、重い病気に罹らないか心配、子どもたちの未来が心配、戦争が起きないか不安で仕方がない。
こうした恐怖は、思考停止をきっかけに起きる。
結果、恐怖や心配に囚われていると、建設的ではない社会批判、他者非難という攻撃性をもつにいたる。
自分はどうありたいのか?どうしたいのか?を考えるよりも、他者や社会に原因があるといった他責の言葉が多くなる。
だから、恐怖や不安に囚われたまま考えても、それは考えたことにはならないと僕は断じる。
人は脳に楽をさせると、本能から不安や恐怖に囚われてしまう。
そして、このような心配、不安、恐怖が世相を覆っているように感じる。
であれば、せめて自分自身の心だけは世相の暗さを打ち破るものにしていく必要がある。
人は、暗く生きるよりも明るく生きたほうが良いとよく言われる。
なぜか?
明るく生きることで、その人が本来的にもっていた力を存分に発揮するようになるからだ。
天との約束は何か?をしっかりと思い出すからだ。
周りがどんなに暗くなっていても、せめて自分だけは明るく生きよう。
せめて自分だけは周りを元気にしていこう。
そんな気概をもった大人が増えていけば、必ず未来も変わっていく。
自燈明。法燈明。
