「民主主義の危機だ!」とか、「テロに屈しない!」なんて正義感あふれる、勇ましい発言を聞く。
そんな時、ひねくれものの自分は、「嘘くせぇ~」と感じてしまう。
だいたい、そのような大仰な発言をしている人の顔を見ると、仮面を被っているようにも思える。
つまり、ウワベの教養(単なる情報か?)からの発言であり、肚の底からの言動ではないということだ。
民主主義の危機やテロの危険を防止するために規制を強くする。
結果として、それが民主主義と自由の排除につながっていくというバカな結果に至りかねない。
なぜ、そのようなバカなことが起きうるかといえば、その言葉のもつ意味の深さ、歴史的背景といったものを緻密に考えようとしないから。
自分はわかっているものとして、それ以上わかっていないことを認識できないから、ではなかろうか?と自分は考える。
そもそも「民主主義」や「テロ」なんて言葉に潜む深い意味を考え、理会している人は、どれくらいいるのか?
どこかから引っ張ってきた権威ある言葉を鵜呑みにし、受け売りの言葉をそのまま自分の言葉として引用しているだけなのでは?と思えなくもない。
頭が良さそうな切れ者、権威ある人々、社会的地位のある人々。
そのような人々が、間違え、見当外れな発言をしている可能性は、十分あると自分は考える。
そのような見当はずれで、「極めて常識的」に思える見解が、マスメディアなどを通じて流布し、単なるスローガンとして庶民に浸透する。
思考停止とは、まさにこのことであり、非常に危ういもの。
自身の凝り固まった常識が揺さぶられるような体験をどれだけ積み上げていけるのか?
要は、自分の誤り、認識不足にいかに気づいていけるのか?
読書体験とは、まさにそれだと考える。
そして、教養とは、そのような刺激的かつ「不快」な体験の蓄積に他ならない。