人は自分の意見や価値観に都合の良い情報だけをみる性質があるらしい。
確かにそういう面があると自分自身を省みて思う。
自分とは真逆の意見、あるいは価値基準が異なる人物の意見を無下に否定したりもする。
冷静で客観的な論証ではなく、感情論に陥っているケースが往々にしてある。
自分の視野にかかっているバイアスを認識せず、それを正当化するほうが心地いい。
しかし、それが自分自身の見方の歪み、偏見、単なる好悪の感情を正当化してしまう愚行に走らせてしまうのかもしれない。
それともう一つの同調バイアス。
正しいと確証がもてないとき、人は集団の意見を自分の意見としてしまう傾向があるようだ。
裏を返せば、集団による制裁、仲間外れを暗に怖がっているからと言われる。
周りがAと言っているのに、自分がBと表明すれば、自分が間違っているのでは?と不安になる心理。
あるいは、いじめや行き過ぎた社会的制裁なんてものも、やはり人間の恐怖心が根源にあると言えるのだろう。
読書とは、自分にかかっているバイアスを認識させる行為。
つまり、自分が間違っているのでは?という認識を新たに生み出すことに寄与すると考える。
また、周りの意見に対しても安易に同調しない視野をも育んでくれるものと信じている。
ところで、本を読んだら即実践とは、どういう意味だろう?
それは、勇気をもって一歩踏み出す・・・というより横にはみ出すことのように思う。
相手とは真逆の意見を表明するのは、勇気がいるし、理不尽な行動をやめさせるのにも勇気がいる。
でも、やっぱりそうせざるを得なくなるのが、本を読む意義のように思える。
自由を本来的に求めながらも不自由の中に安定を見出し、そこに安住できると思い込む。
そうした自発的隷従にはまり込んでしまえば、人としての活力も思考力も失われてしまう。
予定調和は、怖い。