川井小路のブログ デル・トボーソ日記 -4ページ目

川井小路のブログ デル・トボーソ日記

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ブログ上に書いていなければ、もう雲に乗って 今頃は
言葉は消えてしまっている頃だったと思います。

never more

何もないことを 書くのは 難しい

確かと 読んでいて下さる方々がいらっしゃるので、
また辛うじて、この地上の鏡の影でいられるのです…
あなた様方が映っているとしても、お許しを願います、
それにしても蕪雑だなあ、という誰やらのぼやきが きこえます。


読んでいてくださる方々に 心からお礼を 申し上げたいのです。
  





「彼は、精神の王侯とその支配者といったようなものになりたかったのだ。
これを望まないようなものがこの世にいようか?!」
これは、特性のない男の肉声です。 
一種独特の響きを持った、人の胸に迫るものがある声です。 とても良い声の持ち主だと思います。
 私はこの声が好きです。

精神と肉体を二つのものとして考える時、その嚆矢として
懐疑論を打ち負かした「我思う故に我あり」の
『方法序説』の第四部を思い出します。 

デカルトは昔のストア派の人達をなつかしんでこう言います。「
…自然によって予め定められた限界を考えることに絶えず専念していたかれらは、
思想以外には自分の力の範囲内にあるものはひとつもないということを
完全に納得していたから、そのことだけでほかの事物に対するどんな愛着をも防ぎ止めるに
十分だったのである。それでかれらは自分の思想を絶対的に自分の思うとおりにしていたからして、
こういう哲学を持たないがために、自然や幸運に最大限に恵まれていながら
自分の望むすべてのものを自由に処理しえないひとびとよりも、
自分ははるかに富んで、力にみち、自由で幸福であると考えたのも
若干の理由がなくはなかった。」

魂が肉体を離れる瞬間を見て、私はアッと 驚愕したものでした。この瞬間をトロイラスが実際に口にする珍しいシーンがありました。

頭の中の悟性が総てを決する世界ですが、
今 この愛すべき男 を注視します。
「人生の矛盾や人生の一貫性のなさを甘受する人生態度に見られる、
あきらめと猫かわいがりとが混合した態度を、彼は憎悪した。」
彼とはウルリヒです。ついでですから、もう一つ 彼には嫌いなものがあります。

「自分の魂を 魂に関するばか話で慰めて、本当のところは、
悟性は魂にパンの代わりに石を与えるというのに、
まるで牛乳で浸した巻きパンみたいな
宗教的・哲学的・文学的感情で魂を養う、あの半端物、小心者、女々しいものを、
彼は憎悪した。」

無だ、 無 そのものだ。とヴァルターが叫びます。ムージルは 特性の無さ そのものに、微に入り細を穿ちます。








そうして、異化を言うなら 片やこちら、スワン家のこの人です。 

正真正銘のその肉体が、スルタンの末裔である、ウラジーミル・ナボコフは 
「文体と構造こそ、小説の本質よ。
ご大層な 思想なんか、屑!」
 
あの有名な冒頭を持つ
『死せる魂』についてナボコフが語ることを聞きましょう。

「おい、あの車輪を見ねえ。― と一人がもう一人に言った― その気になりゃあれでモスクワまで
行きつけると思うか?」 「行きつけるだろうよ」と相手は答えた。
「だが、カザンまでは行きつけめえと思うがな、どうだ?」 「カザンまでは行きつけめえ」
と相手は答えた。

この次に最新流行の身なりをした若い男が風に吹きまくられ、帽子をとばしそうになって
通り過ぎますが、この男が舞台に登るのはただのこれっきりです。

これを目して、ナボコフは 「これはいわば to be or not to be 的思索の原初的形態である」
 と言いました。 私は、ウーン と唸ってしまいました。
冒頭の二人の対話は、本当に馬車が行きつけるかどうかということなど毛頭問題ではなく、
「彼らを魅するものは ひとえに架空の距離によって車輪の架空の脆弱さを定着させるという
観念的問題であり、…
二人のムジークの思弁は何らの触知可能なものにも基かず、何らの物質的結果ももたらさない。しかし、
哲学と詩はこうして生まれるのだ。」

しかし小説もこうして生まれるのだと、ナボコフはくどいほど 何処ででもどこまでも言い募るのでした。
「彼は 作家として陥りうる 最悪の状態に立ち至っていた。
つまり、事実を 想像によって生みだす能力を失い、
事実がそれ自体として存在しうるものと
信じだしていたのである。」

焼き棄てられた「精神」の つらいその第二部があったのでした。