月刊文芸誌を余り読まないのですが、新聞の書評欄で推していたので、2012年
10月号の 藤田治「鷗よ、語れ。」 を読んだことがあります。 ちょうど二年前。
その時に なんとも思い掛けないことを聞かされた。
「だって面白くない。 『晩年』 はこれっぽっちも面白くない。」 と書かれてありました。
「太宰の初期作品というのは…美しく始まり、思いついた順番に書いていき、徹頭徹尾わたくしごとで、上目遣いに
読者をちらちら見はするものの、結局は人のことなどお構いなしのまま、なんとなく終わる。 云々…」
えっ! 何、 言ってんの?
美しく始まる? 思いついた順番? 徹頭徹尾わたくしごと? 上目遣いに読者をちらちら?
ああ、確かに!
じゃ、こちらから質問させていただきますが、あれは駄作なんですか?
(皆さん 頷いているのかもしれない)
何てことだ!
でも、この胸に手を当ててよく考えると、思い当たらないわけじゃなかった。
「ここを過ぎて空濠の町」
生々しい原体験を、キャンバスに向かってぶちまけている大好きな 『ハムレット』 を エリオットが
失敗作 と容赦なく難じていた。
『晩年』 も 『ハムレット』も、初期の原質が剥き出しのまま流れ出ている。 その「驚愕」という確かな身体感覚を、
目には見えないのに身も心も焼き尽くされてしまった驚きと悲しみを、
私は尊い感情だと想うし、またその哀しみの肉体をいたましく思わずにはいられない。
ここにある激情は、たちどころに冷え固まって、沈潜し、ついには殲滅されてしまう感情なのに、
それを顕した時間は、ここにこうして残っている。
そして、これに立ち会う私=読者を励ます。 それは、私の至福でさえ ありました。
ですが、シェークスピアについては「獅子の口」で、もう少し時間を掛けて、
楽しみながら書くつもりなのです。
どれ、美しく始まりましょうかね。
「美しい」とはなにか?何故か? あれだ、アンドレ・ジッドの 『ドストエフスキー論』に出て来るのだった。
「美しい感情を以て人は悪い文学を作る。」
これは芥川の晩年にも似たような形をとって出てきますね。 芥川に心酔した太宰との接点です。
「より正しい芸術観を持っているものが 必ずしも善い作品を書くとは限っていない。
そう考える時、寂しい気のするものは、独り僕だけだろうか。僕だけでないことを祈る。」
福田さんが 「表現的陰萎」と言っている。 いかにも辛い言葉だなあ。
この荒れ果てた 陰惨な地に立ち入って、順番や、森や、花など どこにあるのだろう?
いいえ、あるのです。順番ならば単一を表現することこそ、第一番にあるのだし、森は大事な友達だし、花ならば太宰の作品
そのものなのです。「道化の華」に岩の上で笑った とあります。
「いつ来て見ても変わらない」。猿が島の、 お前のその箱庭にはもういい加減にウンザリしたよ。
「これは批評の言葉である」。 私対私。
終わりなき あなたの自尊心 そのもの。