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川井小路のブログ デル・トボーソ日記

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 鴎外の 「百物語」 は、物語が始まる前に終わっていました。
それは怪談でしたが、やがて
飾磨屋その人が倦怠のお化けであり、読み手の足元に
ポッカリ口を開けている 暗い淵を覗かせられているのでした。
ひたひたと、こちらの胸のところにまで、爾後が押し寄せていたのでした。

なにもない ということは、只今、現在の話しで過去や未来のことではない
という、見事なお手本です。

そしてこれは
散文の方法ではなく、詩の方法を意味していると思います。
 
T・S・エリオットが、「散文でものを書く時、人は
理想を問題とするのが適当であるが、詩を書いている時は
現実しか取り扱うことができない。」
と言っているのを読んで、長きに渡る昏迷の「体当たり」派としては腑に落ちるものがありました。

「詩を汲む」 と言うのはボルヘスです。

冷たく透き通っていて、キラキラ光る水をこの手に掬い取るように
流れ尽くすものが小躯を伝い落ちるのに
手間はかからない。 いつも「今」 この時だからです。
「過去は何の役にも立ちません。」 とボルヘスもまた言っています。



およそ廉価版と言われるものしか 手元に持たない私ですが、
このボルヘスによるノートン講義の 「詩という謎」 は ― ご存じでしょう ―
黒い表紙に、壇上の作家が講義(か講演)をしている
美しい写真が点いて、これは
まるで、小さな黒い宝石箱のようでありました。
蓋を開けると、これがまたとんでもない高価なものが入っているのです。
言葉の平易さに、うっかり通過しそうになり、何度も私は
引き返さなければなりません。
含蓄に富むなどというヤワなものではありません。
講義録自体が大きな詩のようです。

「もし私が大胆な考え方をする人間であれば…1ダース程度のパターン
だけが存在し、その他の隠喩のすべては気紛れな遊戯
でしかない、と言いかねません。」 まるでウルリヒ同様なのです。



これは少し考えてみなければならないことなので、思い出していただくために以下に
引用します。ウルリヒの幼馴染のクラリセが言うところです。
「―  千人の人間の本質を分析すると、彼らの人間のすべてを形成している
最後のものは、2ダースほどの特性、感性、発展形式、構造形体などとなる。
次にあたしたちの肉体を解剖すると、水とその上を泳ぎ回っている2・3ダースの
小物質の群れしか見つからない。… そして結局公式だけが残るわけ。
この公式が人間にどんな意味があるものか、充分表現することはできないけれども、
それがすべてだって、あの人はいうのよ。」

この後で、例のモンスター・モースブルッガーが登場してくるわけです。
モンスターの前の段階なのですね、これが。
そしてこれこそは あの「海の微風」の意味なのではないでしょうか。

「すべての書は読まれたり。肉は悲し。」
先年の全集によれば
「ああ 肉体は悲しい、それに私は すべての書物を読んでしまった。」
これには分厚な注釈書が付いていて、 「物質的な快楽、飽食、色欲を追い求める、
理想を知らぬ肉体としての人間存在は悲しい、いかにも哀れなものである」と
ありますが、マラルメの問題とはこの公式だと思います。
詩人たちはわずか、2ダースばかりのパターンには到底我慢がならないのです。
「やれやれ、またしても目と星、時と河の流れか」―





そして、今や ありとあらゆるトリック・ストーリーが 遣り尽されてしまいました。