鴎外の 「百物語」 は、物語が始まる前に終わっていました。
それは怪談でしたが、やがて
飾磨屋その人が倦怠のお化けであり、読み手の足元に
ポッカリ口を開けている 暗い淵を覗かせられているのでした。
ひたひたと、こちらの胸のところにまで、爾後が押し寄せていたのでした。
なにもない ということは、只今、現在の話しで過去や未来のことではない
という、見事なお手本です。
そしてこれは
散文の方法ではなく、詩の方法を意味していると思います。
T・S・エリオットが、「散文でものを書く時、人は
理想を問題とするのが適当であるが、詩を書いている時は
現実しか取り扱うことができない。」
と言っているのを読んで、長きに渡る昏迷の「体当たり」派としては腑に落ちるものがありました。
「詩を汲む」 と言うのはボルヘスです。
冷たく透き通っていて、キラキラ光る水をこの手に掬い取るように
流れ尽くすものが小躯を伝い落ちるのに
手間はかからない。 いつも「今」 この時だからです。
「過去は何の役にも立ちません。」 とボルヘスもまた言っています。
*
およそ廉価版と言われるものしか 手元に持たない私ですが、
このボルヘスによるノートン講義の 「詩という謎」 は ― ご存じでしょう ―
黒い表紙に、壇上の作家が講義(か講演)をしている
美しい写真が点いて、これは
まるで、小さな黒い宝石箱のようでありました。
蓋を開けると、これがまたとんでもない高価なものが入っているのです。
言葉の平易さに、うっかり通過しそうになり、何度も私は
引き返さなければなりません。
含蓄に富むなどというヤワなものではありません。
講義録自体が大きな詩のようです。
「もし私が大胆な考え方をする人間であれば…1ダース程度のパターン
だけが存在し、その他の隠喩のすべては気紛れな遊戯
でしかない、と言いかねません。」 まるでウルリヒ同様なのです。
*
これは少し考えてみなければならないことなので、思い出していただくために以下に
引用します。ウルリヒの幼馴染のクラリセが言うところです。
「― 千人の人間の本質を分析すると、彼らの人間のすべてを形成している
最後のものは、2ダースほどの特性、感性、発展形式、構造形体などとなる。
次にあたしたちの肉体を解剖すると、水とその上を泳ぎ回っている2・3ダースの
小物質の群れしか見つからない。… そして結局公式だけが残るわけ。
この公式が人間にどんな意味があるものか、充分表現することはできないけれども、
それがすべてだって、あの人はいうのよ。」
この後で、例のモンスター・モースブルッガーが登場してくるわけです。
モンスターの前の段階なのですね、これが。
そしてこれこそは あの「海の微風」の意味なのではないでしょうか。
「すべての書は読まれたり。肉は悲し。」
先年の全集によれば
「ああ 肉体は悲しい、それに私は すべての書物を読んでしまった。」
これには分厚な注釈書が付いていて、 「物質的な快楽、飽食、色欲を追い求める、
理想を知らぬ肉体としての人間存在は悲しい、いかにも哀れなものである」と
ありますが、マラルメの問題とはこの公式だと思います。
詩人たちはわずか、2ダースばかりのパターンには到底我慢がならないのです。
「やれやれ、またしても目と星、時と河の流れか」―
*
そして、今や ありとあらゆるトリック・ストーリーが 遣り尽されてしまいました。
それは怪談でしたが、やがて
飾磨屋その人が倦怠のお化けであり、読み手の足元に
ポッカリ口を開けている 暗い淵を覗かせられているのでした。
ひたひたと、こちらの胸のところにまで、爾後が押し寄せていたのでした。
なにもない ということは、只今、現在の話しで過去や未来のことではない
という、見事なお手本です。
そしてこれは
散文の方法ではなく、詩の方法を意味していると思います。
T・S・エリオットが、「散文でものを書く時、人は
理想を問題とするのが適当であるが、詩を書いている時は
現実しか取り扱うことができない。」
と言っているのを読んで、長きに渡る昏迷の「体当たり」派としては腑に落ちるものがありました。
「詩を汲む」 と言うのはボルヘスです。
冷たく透き通っていて、キラキラ光る水をこの手に掬い取るように
流れ尽くすものが小躯を伝い落ちるのに
手間はかからない。 いつも「今」 この時だからです。
「過去は何の役にも立ちません。」 とボルヘスもまた言っています。
*
およそ廉価版と言われるものしか 手元に持たない私ですが、
このボルヘスによるノートン講義の 「詩という謎」 は ― ご存じでしょう ―
黒い表紙に、壇上の作家が講義(か講演)をしている
美しい写真が点いて、これは
まるで、小さな黒い宝石箱のようでありました。
蓋を開けると、これがまたとんでもない高価なものが入っているのです。
言葉の平易さに、うっかり通過しそうになり、何度も私は
引き返さなければなりません。
含蓄に富むなどというヤワなものではありません。
講義録自体が大きな詩のようです。
「もし私が大胆な考え方をする人間であれば…1ダース程度のパターン
だけが存在し、その他の隠喩のすべては気紛れな遊戯
でしかない、と言いかねません。」 まるでウルリヒ同様なのです。
*
これは少し考えてみなければならないことなので、思い出していただくために以下に
引用します。ウルリヒの幼馴染のクラリセが言うところです。
「― 千人の人間の本質を分析すると、彼らの人間のすべてを形成している
最後のものは、2ダースほどの特性、感性、発展形式、構造形体などとなる。
次にあたしたちの肉体を解剖すると、水とその上を泳ぎ回っている2・3ダースの
小物質の群れしか見つからない。… そして結局公式だけが残るわけ。
この公式が人間にどんな意味があるものか、充分表現することはできないけれども、
それがすべてだって、あの人はいうのよ。」
この後で、例のモンスター・モースブルッガーが登場してくるわけです。
モンスターの前の段階なのですね、これが。
そしてこれこそは あの「海の微風」の意味なのではないでしょうか。
「すべての書は読まれたり。肉は悲し。」
先年の全集によれば
「ああ 肉体は悲しい、それに私は すべての書物を読んでしまった。」
これには分厚な注釈書が付いていて、 「物質的な快楽、飽食、色欲を追い求める、
理想を知らぬ肉体としての人間存在は悲しい、いかにも哀れなものである」と
ありますが、マラルメの問題とはこの公式だと思います。
詩人たちはわずか、2ダースばかりのパターンには到底我慢がならないのです。
「やれやれ、またしても目と星、時と河の流れか」―
*
そして、今や ありとあらゆるトリック・ストーリーが 遣り尽されてしまいました。