●相手を思いやる心を形に表すのが「礼」
こんにちは、小野尾です。
『論語』では五常と呼ばれる徳が大切にされています。このうち、今回は「礼」について、その内容を簡単にご紹介して、礼に関する論語の言葉を2つご紹介します。
では、日本人の教養講座の第三章「日本人が大切にしてきた道徳」の第二項「日本人が大切に大切にしてきた『論語』という価値観②」の第二回目をお送りします。
心を形に表すのが「礼」
『論語』で「礼」をご紹介する前に、「そもそも「礼」とは何なのか?」について簡単にご説明します。
そもそも「礼」が何かと言えば、「礼」とは心を形に表すことです。心は形にしないと表に現れません。だから、形にしないと心がないのと同じになります。
あいさつをするのも「礼」の一つです。
あいさつをしなければ、その人に会ったことを相手に伝えることができません。その人に会ったことは本人にしかわからないことで、それを相手に伝えるためにあいさつをするのです。
感謝の気持ちを持っていても「ありがとう」と言わなければ相手に伝わりません。「ありがとう」ということで感謝の気持ちを相手に伝えることができます。
人は一人では生きていけません。多くの人との関係を保ちながら生きています。個人と個人との関係、個人と社会との関係を調和させることが必要です。そのために「礼」が必要になるのです。
見た目ではなく中身を大切にするのが礼
「礼」で大切なのは心、つまり中身だということが『論語』で言われています。
林放、礼の本を問う。子曰く、大なるかな問いや。礼はその奢らんよりは寧(むし)ろ倹せよ、喪はその易(おさ)めんよりは寧ろ戚(いた)めよ。
孔子の弟子である林放が孔子に「礼」のもとは何かを質問して、それに対して孔子が答えます。
「礼は見た目を贅沢にするよりは質素な方がよい、葬儀を行うときには体裁を作るよりは哀しむ心があって礼文が足りないくらいがよい。」
見た目や体裁は「礼」のもとではありません。
質素であることや哀しむ心があって礼文が足りないことは、見た目には不足があるように見えますが、中身は伴っています。 「礼」の中身は相手を思いやる真心です。
お祝いごとに対してはめでたいと思う心、悲しいことに対しては哀悼の心が真です。この真心が「礼」のもとになります。
相手を思いやる心がないと、かえって見た目や体裁が気になるものです。相手を思いやる心がないことをごまかすために見た目や体裁を飾りたくなるのが人情というものです。
本当に相手を思いやる心や真心があれば、見た目や体裁が気にならなくなるものです。
見た目や体裁が気にならないくらいに相手を思いやる心を持つことが「礼」につながるということです。
相手を思いやる心があっても度が過ぎては礼に反する
相手を思いやる心が「礼」につながるのですが、度が過ぎることをいさめる言葉が『論語』にあります。
子游曰く、君に事(つか)えてしばしばすればここに辱かしめられ、朋友にしばしばすればここに疏(うと)んぜられる。
孔子の弟子の一人である子游が「礼」についていった言葉です。
「君主に仕えて、度を過ぎた進言をすると、かえってうるさがられて辱しめを受けることになり、友達に度を過ぎた忠告をすると、かえってうるさがられて遠ざけられてしまう。」
君主に仕えることにおいても、友達との交際においても、ものには程度があるということです。 君主に対する忠義の心があれば、君主に対して進言をしたくなりますし、友達のことを思えば、忠告もしたくなります。
しかし、進言をする場合も、忠告する場合も度が過ぎてはいけないということです。いくら相手の思いやる心を持っていても程度を考えなくては、かえって「礼」に反してしまうのです。
また、人と親しくなって心を許せるようになると、「何を言っても許される」と思うようになってしまって、言葉が過ぎて、相手を傷つけてしまうことも起こり得ます。
相手が年長者であれば「礼」を忘れることはあまりないでしょうが、友達の場合、親しくなればなるほど「礼」を忘れてしまいがちです。
どんな人との付き合いにおいても相手を思いやる心がもとにある「礼」を忘れてはいけないということですね。
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