”シンギングボウルの音色から感じた死生感” | 恩寵と共にある

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覚醒や目覚め、恩寵について分かち合う場としていきたいです。

 

シンギングボウルをオンラインで鳴らして、瞑想会やセッションで活用していますが、以前シンギングボウルヒーリングというものを対面で行っていましたが、オンラインでもできるのではないか、ということで何人かに体験してもらっています。

 

 

昨日は瞑想を伝えているあべのぞみさんに体験していただき、詳細な感想をブログに書かれていました。

 

 

感想の部分を転載します。

 

 

 

シンギングボウルはいつもより多くの種類の音色が何層にも織りなされ、その厚みと深みがより体を震わせるようにして伝わってくる。その音はまるで自然界で鳴り響くような不規則な音の並び。それは、まるで激しい雨音のようだし、優しい雨音のようにも聞こえ、不規則性の心地よさを存分に味わえる。

 

音に意識を向けているうち、次第に瞑想状態に入っていき、そこに音はただあるだけになっていく。そして、しばらくすると意識を向けていた音は余韻を残し消えていく。

 

「また、音は鳴るのかもしれない」そんな思いとは裏腹に、もうそこには音はなく、音があったような感覚だけが自分の中に残され、探しても音はそこにはない状態。そして、それが続く。

 

これは死と近いかもしれない。そんなことを感じた。

 

当たり前にあった音は、わたしたちが生きているという時間だったり、感覚だったり。だけど、音がなくなった瞬間には音はまた鳴るかもしれないと、音がなくなった状態を受け入れることができず、音を探す。だけど、そこには音がなく。ただ、あるのは音が消えた世界。

 

そして、その先にあるのは無だと思っていたけれど、そこには違う世界があり、音が鳴っていたときもきっとあった別の空間で、そこには生活の音が流れている。シンギングボウルの音は、もう、そこにはなく、音があったはずの世界に、なんとなく取り残されたように感じる自分がある。

 

だけど取り残されたわけでもなく、実はそこにある世界の中、自分自身も馴染んだ状態で存在していた。

 

そして、音はないけれど、何もない「無」ではなく、そこにあるすべてのものと共に存在する自分がそこにいて、シンギングボウルの音が鳴り響いていた世界と同じ世界なんだけれど、だけど、感覚としては、それとは違う世界が広がっている。だけどそこは無ではない。

 

死んだ後の世界を想像するとき、何もない世界だと想像しているけれど、実は今、ここにもある世界が死んだあとにも意識できる世界としてあって、そこの世界の一部として自分が存在し続ける。それは、今も、死んだあとも同じような状態で存在し続けるのかもしれないと、なぜかシンギングボウルの音色とそしてその音が消えた、ただ、それだけの時間の中、感じることができた死生感。

 

あると感じることは、そのあるに対してひとつのコダワリのような感覚を持ち、それをあると認識する。「ない」はそれに対し、なにも無い状態だと、どこかで決めつけている。

 

けれど、「ある」もそこにしがみついているから、「ある」と認識しているだけで、「ある」のはそれだけではなく、「ある」以外にもっと様々な世界が、きっとそこにあったのだろうし。そして、それがなくなっても、そこにしがみつこうとする思いが無を作るのではないかと感じた。

 

少し難しい話になってしまったし、感覚の世界だから説明もまた難しい。そして、あの瞬間に感じた世界とまた少し色が変化してしまい、言葉に、それも文章にするとまた違うものになってしまっているように感じる。

 

 

だから、ぜひ、これはそれぞれがそれぞれに、どんな世界を感じるか体験、体感してもらいたいと思う。いや、もしかしたら何も感じることができないかもしれない。だけど、そのどちらもまったく間違いではなく、受け取ってみることで、その後の世界観が少しずつ変化していくのではないかと思います。

 

 

 

ヒーリングとしてリラクゼーションや癒やしとしての効果がありますが、のぞみさんはそれを超えて無と有が一体となる、根源的なことが起こったようです。

 

 

最近読んだ本で、無と有が断絶しておらず溶け合っているということが書かれており、それをのぞみさんは実感されました。

 

 

思考で理解するのではなく、実感することで本当の理解が生じる。のぞみさんの感想を読んで、そのことを今まで以上に実感しました。

 

 

のぞみさん、詳細な感想をありがとうございました。

 

 

オンラインシンギングボウルヒーリングを体験されたい方はご連絡ください。