こんにちは。
GOLDEN KIDです。
今日は、前回の記事
の続きとして
能動的思考と唯識の2つの解釈
をお届けします。
能動的思考は、様々な側面があるのですが、まず一つ言えることは、無意識ではなく「意識的な思考」と言うことです。いわゆる<気づき>や<目覚め>を伴った思考です。
能動的思考によって初めて、気づきや目覚めが得られるとも言えますね。その昔イエスは「目を覚ましていなさい」と言いましたが、気づこう、目覚めようという意志がない限り、決して気づくことも目覚めることもできないからです。
ただ、私たちの多くは受動的思考の枠から抜け出ることができず、その中で思考するため、気づこう目覚めようと思ってもなかなかそれらを得ることができません。むしろ、偽の気づきや目覚めを自ら作り出し、その中に留まってしまうこともあります。
よって能動的思考を知る前に、先ず受動的思考の存在をしっかり自覚し、そこから脱却していくことが大事になってきますね。
そして、唯識は、大乗仏教の見解の一つで、いわゆる世の中は「唯、識である」と言うものです。ここでの識は、心とも言い換えることができ、即ち「心の外側には何もない」と言うものでもあります。
ここから、”自分の外側にあるものは全て心が作り上げた虚像である。ゆえに心があると思えばあるし、ないと思えばない。夜空に浮かぶ月も、心があると思うからあるのであって、ないと思えばない”などという唯識の解釈があります。
一見真理を突いた内容にも思えますが、皆さんはどう思われますでしょうか?
「心の外側には何もない」という言葉からこのような解釈に繋がるのかも知れませんが、問題は、ここで言う心は何を指すのか?です。
結論から言いますと、ここで言う心を受動的思考として捉えると、上記のような解釈になるかと思います。なぜなら受動的思考とは、自分の内側に限定された心だからです。自分の内側に限定されているからこそ、外側のものは全て虚像になるのですね。心の外側、即ち受動的思考の外には何もないわけですので。
しかし、心を能動的思考と捉えると、全く違った世界が見えてきます。
能動的思考は、自分の外側に伸びて行く心であり、極論を言いますと無限大です。受動的思考が限られた心であれば、能動的思考は宇宙大の心です。
*宇宙大と言っても、物理的な宇宙サイズと言う意味ではありません。物理的な宇宙サイズを思い浮かべてしまうとしたら、その思考がまさに受動的思考と言えますね。
即ち、受動的思考を通じて世の中を見れば、全てが虚像かも知れませんが、能動的思考を通じて世の中を見れば、全てが真実なのです。
もちろん、”受動的思考を通じて見る世の中は虚像である”と看破することは重要です。ただ、”世の中は虚像である”という言葉だけに囚われてしまうと、決して受動的思考の外に広がる真実を見抜くことはできないのですね。
唯識ではこのように、受動的思考の外に出て、能動的思考を見出すことを『転識得智(てんじきとくち)』と言います。”識が転じて智を得る”ということで、智=能動的思考と言ってもいいかと思います。
そして、識が転じて智を得ると、この世は全て真実であり、皆が関係性をもって存在していることが分かってきます。唯識の用語を使うと、それぞれを真実性・依他性と言います。言い換えると、智を得ることで、この世の真実性と依他性を見抜くことができるのです。
ちょっと長くなってしまったので、続きは次回とさせていただきますが、智を得る前の識を受動的思考と捉えれば、”唯識=自分の外側の世界は全て虚像”という認識はある意味正しいと言えるかも知れません。
ただ唯識が本当に言いたいことは、自分の外側、即ち受動的思考の外にある転識得智の後に現れる世界だと思います。識が転じて智を得るので、その時現れる世界は「唯識」ではなく「唯智」と言えるかも知れませんが^^;
次回はこの転識得智の後に現れる世界について、さらに能動的思考と絡めながら見ていきたいと思います。
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