251 :マジレスさん:2012/06/23(土) 00:04:49.85 ID:9/8kpLql
就活やめて、独立するために留学するなんて考えてしまったけど
みんなが内定とって、着実に人生を歩んでいるのに
自分が危険で先の見えない道を行こうとしているのが怖い
もともと対して優秀なわけでもないし、誰にいってもまじめに信じてくれないと思う
でもやりたいと思ったんだけど
怖すぎる。後戻りできないけど、俺これでよかったんだろうか
266 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/06/23(土) 20:33:48.38 ID:QK0Waoer
>>251 それで良かったのじゃ。
なぜならそれがおぬしの道だからじゃ。
己の道を行く事が出来るのは良い事じゃ。
昔も今もいろいろな理由で自分の道を行く事すら出来ない者が多いのじゃ。
282 :251:2012/06/24(日) 14:52:15.50 ID:tCY8kCLW
>>266
本当は俺だって安全でやりがいのある仕事をする企業に行きたかったけど駄目だったんだ
それで微妙な企業に行くか、自分でやるかの選択になったんだけど
俺だって自分の道を行くことすらできてないんだ
良いことかもしれないけど、いわゆる就活して就職して普通に生きていくという道を外れるのが怖い
300 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/06/24(日) 20:46:28.84 ID:c/+ONdiX
>>282 少なくとも選択が出来るのは良い事じゃ。
本当は誰の人生にも保証などは無いものじゃ。
ただみんなと同じような道に行く事で、偽りの安心感を作り出していただけなのじゃ。
その怖さの原因を追求してみると良かろう。
原因が判れば恐れもまた制する事が出来るのじゃ。
395 :251:2012/06/28(木) 00:46:56.16 ID:PR/Iz6NN
>>300
なるほど、人と同じ生き方ってのが偽りの安心感ってのはなんかしっくりきました。
が、やはり人と違うことをするのが怖いです
覚悟して、進むと決めたはずなのですが、どういうわけか最近不安で不安で
プレッシャーにつぶされそうになります
鬱状態に近いかもしれません
外出もしづらくなっています
やっぱり、みんなと一緒にサラリーマンになる切符を手に入れた人への嫉妬心も捨てきれません
原因はわかるのですがどうしようもありません
自分に自信がないからなんです
こういうことは大学で優秀だった人間が、挑戦するという意味合いでやるもので
自分はサークル活動等に力を入れすぎていたためどちらかというと落ちこぼれに近い部類で
短期間の努力とひらめきとセンスで成果を出す課題は上位に来ることができましたが、本来もっとも重視される
長期の努力と総合的な知識と分析が必要な課題ではまったく駄目でした。
現在はおそらく普通程度の力はついたと思いますが、そういう挑戦をするような学生ではないんです本来
怖すぎる
415 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2012/06/28(木) 20:15:14.53 ID:2/qTjmsF
>>395 その原因から恐れが生じ、原因が無ければ恐れも生じないと観察すると良かろう。
恐れは習慣による心の働きから生じるものじゃ。
法を行う事で滅する事が出来るのじゃ。
数息観などもあわせてやってみるとよかろう。
心を制するのに役に立つじゃろう。
876 :マジレスさん:2010/07/18(日) 23:11:03 ID:etT6qR40
死は何にもとらわれず 全てと1つな気がします
死と悟りにちがいはありますか?
878 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/19(月) 21:02:33 ID:Kt2ZLZT1
>>876 死によって涅槃は全うされるのじゃ。
しかし、何もせずに死ぬだけでは悟りとは言えんのう。
また苦しみを受けるじゃろう。
再び苦をうけないのが悟りなのじゃ。
884 :876:2010/07/21(水) 05:32:28 ID:KbQRjTSw
>>878
赤ちゃんで死んでも苦しみますか?
ってか苦しみってなんです?死んだらまたも再びもないでしょう
888 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/21(水) 20:02:03 ID:5B6/ECuP
>>884 苦しみとは誤った認識の上に生じるものじゃ。
それが無くならないうちは赤ちゃんで死んでも苦しむのじゃ。
生まれる条件があって一度生まれたものは、その条件がある限りまた生まれるじゃろう。
900 :884:2010/07/23(金) 19:07:09 ID:B/K85guI
>>888
誤った認識とは例えば何ですか?
死んで脳が働いてないのになぜ苦しみますか?
人は生まれ変わるとは思いますが なぜ苦しみを引き継いだ生き物?になるんですか?
生き物が誕生する前 苦しみはどこから来たの…ってなりません?
905 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/23(金) 20:25:24 ID:6lET7Lmt
>>900 誤った認識とは記憶による認識なのじゃ。
それがある限り、死んでもまた生まれ変わり苦を受けるのじゃ。
苦を生む条件を抜け出していないからじゃ。
苦は常住ではなく、条件によって生まれては消えていくものじゃ。
初めはなく、無明という条件によって生まれ、また滅する事ができるものなのじゃ。
908 :900:2010/07/23(金) 21:02:43 ID:B/K85guI
>>905
全て脳がつくりだしているので 記憶も無明も死んだら無くなるはずでは?
生まれ変わりは 死後すぐですか?しばらくしてですか?
また人になるのですか?
913 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/24(土) 19:44:02 ID:qeC2r2ei
>>908 全て脳が作り出している訳ではない。
脳に因らない意識は常にある。
個我という観念を持てばそれが次の体を生じさせる種子となる。
生まれ変わる期間は人によって違うのじゃ。
動物のようなふるまいをすれば動物になるじゃろう。
919 :908:2010/07/25(日) 04:04:48 ID:g1H1ecTi
>>913
脳に因らない意識は常にある?例えば魂が存在するって言ってるのですか?
生まれ変わりや その時期が違うことまでなぜ知ってるのですか?
927 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/25(日) 20:07:58 ID:/FV24N0X
>>919 魂という考えもまた個体という観念を離れてはいないのじゃ。
全てはひとつの意識であり、死も意識のひとつの状態なのじゃ。
脳がすべてと言う考えも最近の脳学者が主張しているところじゃが、人の体にも脳を介さない脊髄反射というものがある。
意識は脳だけでなく、肉体の全てに在るものじゃ。
死によっても消えない意識に到達したなら、死の意識にある者が夢を見たり、生まれ変わるったりするのも知覚できるじゃろう。
全ては妄想に過ぎないものではあるがのう。
929 :919:2010/07/25(日) 21:30:04 ID:g1H1ecTi
>>927
意識は脳だけでなく全てに在るでしょう
その意識のある条件は 人間というかたまりで生きてることです
自分が聞きたいのは 死後の意識のことです
つまりその死によっても消えない意識のことです
その状態の説明じゃないですよ なぜそれがあるのか なぜあることを知っているのかを聞きたいです
全ては妄想に過ぎない? なぜ確かなものを言うように意見するのですか?
937 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/26(月) 19:27:52 ID:4RqIapTw
>>929 人の意識と死の意識が離れてある訳ではない。
全てはただ一つの意識の表れなのじゃ。
在ると呼べるのはそれだけであり、何故と言う理由もなくただ在りつづけるものじゃ。
悟りを得ればそれを感知できるようになる。
おぬしが聞くから妄想でも答えるのじゃ。
938 :929:2010/07/27(火) 18:19:30 ID:fZQ1VQ2e
>>937
人の意識と死の意識 全ては一つの意識
そう言うこともできますしここまではいいとして 苦しみという感覚が残り引き継ぐ理由がわかりません
苦しみもただそこに在っただけで その後苦しみと呼んでた物に変わるだけでは?
ちなみに悟りと呼ばれてるものは得てます…たぶん
>おぬしが聞くから妄想でも答えるのじゃ
それは違います 最初から妄想ならなにも答えなくてもいいでしょう
どんな質問にも「妄想じゃ」と返すこともできたでしょう 答えるのは答えたいから答えるのです
それに聞きたい答えではないです
全て妄想なのに確信した意見があること 矛盾してませんか?
947 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/31(土) 20:01:52 ID:3C+29Ouj
>>938 苦しみも妄想じゃ。
全てが妄想である事と、それを知り、説く事は違うものじゃ。
死は何にもとらわれず 全てと1つな気がします
死と悟りにちがいはありますか?
878 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/19(月) 21:02:33 ID:Kt2ZLZT1
>>876 死によって涅槃は全うされるのじゃ。
しかし、何もせずに死ぬだけでは悟りとは言えんのう。
また苦しみを受けるじゃろう。
再び苦をうけないのが悟りなのじゃ。
884 :876:2010/07/21(水) 05:32:28 ID:KbQRjTSw
>>878
赤ちゃんで死んでも苦しみますか?
ってか苦しみってなんです?死んだらまたも再びもないでしょう
888 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/21(水) 20:02:03 ID:5B6/ECuP
>>884 苦しみとは誤った認識の上に生じるものじゃ。
それが無くならないうちは赤ちゃんで死んでも苦しむのじゃ。
生まれる条件があって一度生まれたものは、その条件がある限りまた生まれるじゃろう。
900 :884:2010/07/23(金) 19:07:09 ID:B/K85guI
>>888
誤った認識とは例えば何ですか?
死んで脳が働いてないのになぜ苦しみますか?
人は生まれ変わるとは思いますが なぜ苦しみを引き継いだ生き物?になるんですか?
生き物が誕生する前 苦しみはどこから来たの…ってなりません?
905 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/23(金) 20:25:24 ID:6lET7Lmt
>>900 誤った認識とは記憶による認識なのじゃ。
それがある限り、死んでもまた生まれ変わり苦を受けるのじゃ。
苦を生む条件を抜け出していないからじゃ。
苦は常住ではなく、条件によって生まれては消えていくものじゃ。
初めはなく、無明という条件によって生まれ、また滅する事ができるものなのじゃ。
908 :900:2010/07/23(金) 21:02:43 ID:B/K85guI
>>905
全て脳がつくりだしているので 記憶も無明も死んだら無くなるはずでは?
生まれ変わりは 死後すぐですか?しばらくしてですか?
また人になるのですか?
913 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/24(土) 19:44:02 ID:qeC2r2ei
>>908 全て脳が作り出している訳ではない。
脳に因らない意識は常にある。
個我という観念を持てばそれが次の体を生じさせる種子となる。
生まれ変わる期間は人によって違うのじゃ。
動物のようなふるまいをすれば動物になるじゃろう。
919 :908:2010/07/25(日) 04:04:48 ID:g1H1ecTi
>>913
脳に因らない意識は常にある?例えば魂が存在するって言ってるのですか?
生まれ変わりや その時期が違うことまでなぜ知ってるのですか?
927 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/25(日) 20:07:58 ID:/FV24N0X
>>919 魂という考えもまた個体という観念を離れてはいないのじゃ。
全てはひとつの意識であり、死も意識のひとつの状態なのじゃ。
脳がすべてと言う考えも最近の脳学者が主張しているところじゃが、人の体にも脳を介さない脊髄反射というものがある。
意識は脳だけでなく、肉体の全てに在るものじゃ。
死によっても消えない意識に到達したなら、死の意識にある者が夢を見たり、生まれ変わるったりするのも知覚できるじゃろう。
全ては妄想に過ぎないものではあるがのう。
929 :919:2010/07/25(日) 21:30:04 ID:g1H1ecTi
>>927
意識は脳だけでなく全てに在るでしょう
その意識のある条件は 人間というかたまりで生きてることです
自分が聞きたいのは 死後の意識のことです
つまりその死によっても消えない意識のことです
その状態の説明じゃないですよ なぜそれがあるのか なぜあることを知っているのかを聞きたいです
全ては妄想に過ぎない? なぜ確かなものを言うように意見するのですか?
937 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/26(月) 19:27:52 ID:4RqIapTw
>>929 人の意識と死の意識が離れてある訳ではない。
全てはただ一つの意識の表れなのじゃ。
在ると呼べるのはそれだけであり、何故と言う理由もなくただ在りつづけるものじゃ。
悟りを得ればそれを感知できるようになる。
おぬしが聞くから妄想でも答えるのじゃ。
938 :929:2010/07/27(火) 18:19:30 ID:fZQ1VQ2e
>>937
人の意識と死の意識 全ては一つの意識
そう言うこともできますしここまではいいとして 苦しみという感覚が残り引き継ぐ理由がわかりません
苦しみもただそこに在っただけで その後苦しみと呼んでた物に変わるだけでは?
ちなみに悟りと呼ばれてるものは得てます…たぶん
>おぬしが聞くから妄想でも答えるのじゃ
それは違います 最初から妄想ならなにも答えなくてもいいでしょう
どんな質問にも「妄想じゃ」と返すこともできたでしょう 答えるのは答えたいから答えるのです
それに聞きたい答えではないです
全て妄想なのに確信した意見があること 矛盾してませんか?
947 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/07/31(土) 20:01:52 ID:3C+29Ouj
>>938 苦しみも妄想じゃ。
全てが妄想である事と、それを知り、説く事は違うものじゃ。
532 :マジレスさん:2010/06/02(水) 20:25:44 ID:STSqfUKr
鬼和尚さま
悟りの境地 ≒ 無邪気な子供の心
でしょうか?
子供の明るさ、前向きさには感心します。
自分が悩んでいるときに、子供の無邪気な笑顔を見たり、
笑い声を聞くと、すごく癒されます。
いっしょに笑うと「悩み」が吹っ飛ぶ気になります。
小さな子供がウジウジ悩んでいる姿を見たことがありません。
大人に近づくにつれ、自我が強くなり、悩みも出てきます。
大人も「無邪気な子供の心」に戻ってみるのも良いと思いませんか?
538 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/03(木) 20:09:35 ID:T45YYGZM
>>532 そうじゃのう。子供の心はまだ記憶にとらわれていないからのう。
539 :マジレスさん:2010/06/04(金) 14:28:12 ID:WGN1dO1B
>>538
鬼和尚さん
こんなのが本にあったよ。悟りの境地は一度汚れないといけないみたいね。
鈴木大拙
・・大人は小児の心を失わずといい、また天国は赤子のごとくにして、始めて入ることを許されるというが、
それはただの赤子になるのではない、大人の赤子である。
分別を具えた無分別である。迷い迷いての後に出来た、大人の赤子である。
オショー
・・「私の神の王国には、幼子のような人々だけが迎えられるだろう」。
だが忘れてはならないのは、イエスは「幼子のような」と言っているのであって、
「幼子」と言っているのではないということだ。幼子は入れない。
世間の風習に染まり、汚され、それを自分の手で清めなければならない。その体験が必要だ。
540 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/04(金) 19:53:56 ID:rRPh8WTI
>>539 そうじゃな、なかなかいい事を書くのう。
546 :マジレスさん:2010/06/05(土) 18:20:13 ID:NRWAG43Q
>>538
悟りとは 子供の心になることではないですよね?
むしろ 子供の心を出さないのが悟りな気がしますが
552 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/05(土) 19:53:35 ID:SUwAplW4
>>546 子供の心を出さないのは教育なのじゃ。
自らの本当の心を追い求めて行けば子供の心に帰るのじゃ。
558 :マジレスさん:2010/06/06(日) 13:28:16 ID:37Am/18x
>>552
子供の心とは どのような状態ですか?
562 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/06(日) 19:34:35 ID:r73IN0Dw
>>558 子供と言っても少し大きくなると直ぐに欲にとりつかれたりする者も多いが、まだ欲がなく、自分という分別も未だ位じゃのう。
そのようであれば全てと繋がりを持っている感覚があり、観察も鋭いものじゃ。
妙観察智などの萌芽があると言えるのじゃ。
563 :マジレスさん:2010/06/06(日) 23:46:11 ID:37Am/18x
>>562
子供はただ本能じゃないですか? 虫はどう予想できますか?
その他の動物とかもどうでしょう 人間も動物ですよね
大人も子供より選択肢が増えた ただの子供じゃないでしょうか
子供が悟りに近いとは全く思えません 愛を知らない気がします
565 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/07(月) 19:39:07 ID:iruC7Iz3
>>563 何もわからぬ赤子の頃には本能だけじゃろう。
成長と共に知恵が芽生えるのじゃ。
そこには愛よりも尊い一つである事が判るのじゃ。
愛にはまだ分別があり、相手のためという欲もある。
それすらも超えた安心を、覚えている者も居るじゃろう。
神とか宇宙とかそんな名前で呼ぶ必要のない全てがただ一つで在ったのじゃ。
605 :マジレスさん:2010/06/09(水) 00:50:30 ID:nAgS72W1
>>565
ずっと考えてなんとなく理解できました
なににもとらわれない ゼロの感覚で全てに接するというか…
意識はあるのにどこまでが自分かわからず 限りなく全ての一部というか…
ものすごく悟りに似ている気がします
想像すると心地よいです 自分がとらわれてることにきずきました
いろいろ思ってみましたがあってます?
あと 悟りに近いですが悟りではないですよね?
607 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/09(水) 19:53:13 ID:NYGFPFJe
>>605 そのようなものじゃ。
誰もが一度はそれを味わってる。
大人になれば失ってしまうものじゃ。
悟りはもはや言葉で表すものが無い所なのじゃ。
そこまで行けばもはや苦も無くなるじゃろう。
627 :605:2010/06/11(金) 12:16:58 ID:GyGgq/bw
>>607
言葉も苦も無い
子供の心は悟りそのものな 気がします
なぜ 近いと思ったのかもわからなくなりました
自身が全ての一部の状態の時
正しいとか 間違いとか そういうものは何も無くなりますよね?
631 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/11(金) 19:49:31 ID:G6G2NXB9
>>627 そうじゃ、何もなくなる。
言葉にならなくていいのじゃ。
他人に伝える必要がなければのう。
648 :605:2010/06/13(日) 19:42:20 ID:SD5kdJPN
>>631
正しいとか 間違いとか何もない この状態をだれよりも知ってるのに
ここでこうして みんなの質問にこたえて みんなにする助言
それが正しいと思う方向、目的はどこに向いているのですか?
間違ったことをしてるとは 全く思いませんが
悟りとは別というか 間逆の方向な気がします
664 :マジレスさん:2010/06/19(土) 18:34:18 ID:9ro9seD+
鬼和尚さん>>648もお願いします
665 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/19(土) 19:55:30 ID:XZxxSdHL
>>664 それが慈悲というものじゃ。
赤子が線路の上に寝ていたら誰でも正しいとか間違いとか考えずに助けるじゃろう。
助けを求める者に慈悲を施すのは、正誤を離れた自他一如の表れなのじゃ。
677 :マジレスさん:2010/06/21(月) 05:27:17 ID:QuEgCSR3
>>665
慈悲 それは 無償の愛と同じですか?
たとえば相手の気持ちになって考えることも自他一如の表れで
さらにみんなの気持ちを考えることで全てを1つになって
悟りにつながるってことですか?
678 :マジレスさん:2010/06/21(月) 12:18:34 ID:g2KPXNiM
お釈迦様の説いた「慈悲」と、キリストの説いた「愛」は同じものだよね?
そして彼らの教えの下に出来たそれぞれの組織が、その教えを複雑で解りにくいものにしたんだよね?
時には権力の権威付けの為に利用したり、金儲けの道具にしたりと・・・
糞和尚様、どうですか?
683 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/21(月) 20:42:43 ID:G5Lx2XLn
>>677 そういう事もあるじゃろう。
それは何かのためという事もなく、自然に湧いてくるものじゃ。
自らの心から浮ぶものを受け入れねそれに従うのは正に道に近いといえるのじゃ。
>>678 おぬしがそう思うならそうじゃ。
684 :マジレスさん:2010/06/21(月) 21:14:44 ID:g2KPXNiM
>>683
> >>678 おぬしがそう思うならそうじゃ。
俺は糞和尚、あなたの意見が聞きたいんだよ。
703 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/22(火) 20:23:39 ID:Qw01rtIB
>>684 わしに意見は無い。
昨日は正しいと思っていた事も、今日になって条件が違えば正しくなくなるものじゃ。
鬼和尚さま
悟りの境地 ≒ 無邪気な子供の心
でしょうか?
子供の明るさ、前向きさには感心します。
自分が悩んでいるときに、子供の無邪気な笑顔を見たり、
笑い声を聞くと、すごく癒されます。
いっしょに笑うと「悩み」が吹っ飛ぶ気になります。
小さな子供がウジウジ悩んでいる姿を見たことがありません。
大人に近づくにつれ、自我が強くなり、悩みも出てきます。
大人も「無邪気な子供の心」に戻ってみるのも良いと思いませんか?
538 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/03(木) 20:09:35 ID:T45YYGZM
>>532 そうじゃのう。子供の心はまだ記憶にとらわれていないからのう。
539 :マジレスさん:2010/06/04(金) 14:28:12 ID:WGN1dO1B
>>538
鬼和尚さん
こんなのが本にあったよ。悟りの境地は一度汚れないといけないみたいね。
鈴木大拙
・・大人は小児の心を失わずといい、また天国は赤子のごとくにして、始めて入ることを許されるというが、
それはただの赤子になるのではない、大人の赤子である。
分別を具えた無分別である。迷い迷いての後に出来た、大人の赤子である。
オショー
・・「私の神の王国には、幼子のような人々だけが迎えられるだろう」。
だが忘れてはならないのは、イエスは「幼子のような」と言っているのであって、
「幼子」と言っているのではないということだ。幼子は入れない。
世間の風習に染まり、汚され、それを自分の手で清めなければならない。その体験が必要だ。
540 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/04(金) 19:53:56 ID:rRPh8WTI
>>539 そうじゃな、なかなかいい事を書くのう。
546 :マジレスさん:2010/06/05(土) 18:20:13 ID:NRWAG43Q
>>538
悟りとは 子供の心になることではないですよね?
むしろ 子供の心を出さないのが悟りな気がしますが
552 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/05(土) 19:53:35 ID:SUwAplW4
>>546 子供の心を出さないのは教育なのじゃ。
自らの本当の心を追い求めて行けば子供の心に帰るのじゃ。
558 :マジレスさん:2010/06/06(日) 13:28:16 ID:37Am/18x
>>552
子供の心とは どのような状態ですか?
562 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/06(日) 19:34:35 ID:r73IN0Dw
>>558 子供と言っても少し大きくなると直ぐに欲にとりつかれたりする者も多いが、まだ欲がなく、自分という分別も未だ位じゃのう。
そのようであれば全てと繋がりを持っている感覚があり、観察も鋭いものじゃ。
妙観察智などの萌芽があると言えるのじゃ。
563 :マジレスさん:2010/06/06(日) 23:46:11 ID:37Am/18x
>>562
子供はただ本能じゃないですか? 虫はどう予想できますか?
その他の動物とかもどうでしょう 人間も動物ですよね
大人も子供より選択肢が増えた ただの子供じゃないでしょうか
子供が悟りに近いとは全く思えません 愛を知らない気がします
565 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/07(月) 19:39:07 ID:iruC7Iz3
>>563 何もわからぬ赤子の頃には本能だけじゃろう。
成長と共に知恵が芽生えるのじゃ。
そこには愛よりも尊い一つである事が判るのじゃ。
愛にはまだ分別があり、相手のためという欲もある。
それすらも超えた安心を、覚えている者も居るじゃろう。
神とか宇宙とかそんな名前で呼ぶ必要のない全てがただ一つで在ったのじゃ。
605 :マジレスさん:2010/06/09(水) 00:50:30 ID:nAgS72W1
>>565
ずっと考えてなんとなく理解できました
なににもとらわれない ゼロの感覚で全てに接するというか…
意識はあるのにどこまでが自分かわからず 限りなく全ての一部というか…
ものすごく悟りに似ている気がします
想像すると心地よいです 自分がとらわれてることにきずきました
いろいろ思ってみましたがあってます?
あと 悟りに近いですが悟りではないですよね?
607 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/09(水) 19:53:13 ID:NYGFPFJe
>>605 そのようなものじゃ。
誰もが一度はそれを味わってる。
大人になれば失ってしまうものじゃ。
悟りはもはや言葉で表すものが無い所なのじゃ。
そこまで行けばもはや苦も無くなるじゃろう。
627 :605:2010/06/11(金) 12:16:58 ID:GyGgq/bw
>>607
言葉も苦も無い
子供の心は悟りそのものな 気がします
なぜ 近いと思ったのかもわからなくなりました
自身が全ての一部の状態の時
正しいとか 間違いとか そういうものは何も無くなりますよね?
631 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/11(金) 19:49:31 ID:G6G2NXB9
>>627 そうじゃ、何もなくなる。
言葉にならなくていいのじゃ。
他人に伝える必要がなければのう。
648 :605:2010/06/13(日) 19:42:20 ID:SD5kdJPN
>>631
正しいとか 間違いとか何もない この状態をだれよりも知ってるのに
ここでこうして みんなの質問にこたえて みんなにする助言
それが正しいと思う方向、目的はどこに向いているのですか?
間違ったことをしてるとは 全く思いませんが
悟りとは別というか 間逆の方向な気がします
664 :マジレスさん:2010/06/19(土) 18:34:18 ID:9ro9seD+
鬼和尚さん>>648もお願いします
665 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/19(土) 19:55:30 ID:XZxxSdHL
>>664 それが慈悲というものじゃ。
赤子が線路の上に寝ていたら誰でも正しいとか間違いとか考えずに助けるじゃろう。
助けを求める者に慈悲を施すのは、正誤を離れた自他一如の表れなのじゃ。
677 :マジレスさん:2010/06/21(月) 05:27:17 ID:QuEgCSR3
>>665
慈悲 それは 無償の愛と同じですか?
たとえば相手の気持ちになって考えることも自他一如の表れで
さらにみんなの気持ちを考えることで全てを1つになって
悟りにつながるってことですか?
678 :マジレスさん:2010/06/21(月) 12:18:34 ID:g2KPXNiM
お釈迦様の説いた「慈悲」と、キリストの説いた「愛」は同じものだよね?
そして彼らの教えの下に出来たそれぞれの組織が、その教えを複雑で解りにくいものにしたんだよね?
時には権力の権威付けの為に利用したり、金儲けの道具にしたりと・・・
糞和尚様、どうですか?
683 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/21(月) 20:42:43 ID:G5Lx2XLn
>>677 そういう事もあるじゃろう。
それは何かのためという事もなく、自然に湧いてくるものじゃ。
自らの心から浮ぶものを受け入れねそれに従うのは正に道に近いといえるのじゃ。
>>678 おぬしがそう思うならそうじゃ。
684 :マジレスさん:2010/06/21(月) 21:14:44 ID:g2KPXNiM
>>683
> >>678 おぬしがそう思うならそうじゃ。
俺は糞和尚、あなたの意見が聞きたいんだよ。
703 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2010/06/22(火) 20:23:39 ID:Qw01rtIB
>>684 わしに意見は無い。
昨日は正しいと思っていた事も、今日になって条件が違えば正しくなくなるものじゃ。
328 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/05(土) 20:20:50.27 ID:CcUk1B1q
鬼和尚さん、修行のプログラムはつくれませんか
初めての人は、これこれのことを何日続ける。これこれの効果がでたら次のステップに進む
みたいな
335 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/06(日) 20:45:23.23 ID:zuygEH8q
>>328 そのようなものを作ってしまうと、全部やったから悟った筈だと勘違いする者が出るのじゃ。
自分を観る過程はマニュアルやプログラムでは出来ないものであるからのう。
クリシュナムルティも言って居るが、それらは心を鈍くさせ、気づきを少なくしてしまうものなのじゃ。
人には難しい事であるが、ただひたすらに集中し、己を観察し続けるしかないのじゃ。
336 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/06(日) 21:49:58.57 ID:/4YSBkf3
そうですか。ひとりふたり勘違いするひとが出ても、それを上回る数のひとにメリットが
あればそれでいいような気がするんですが。
観察にしても、果たしてこのやりかたで合ってるのか、目安としていつまでやればいいのか、
どうなれば続けてきた甲斐があったのか、わかりません。
それこそ頭の中に光が見えるだの、クンダリニーがあがるだのみたいなわかりやすい
目安があればいいんですが、そういうのは妄想だって前にいってましたし。
なんの結果も期待せず、ただ観察を続けること自体が結果であり目的である、と考える
しかありませんか。
345 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/07(月) 20:05:53.85 ID:PH6TgoUw
>>336 もし自分が変化して行く事を恐れないならば、直ぐにでも結果はわかるじゃろう。
手などの肉体を観察しただけでも、それが己ではなく、己のものではないという気づきが生じ、厭離が起こるのじゃ。
マハリシは教えも知らず、ただ死に行く己を追及して一晩で悟ったのじゃ。
禅でも頓悟といい、今この瞬間にも悟りは訪れる事を説いておる。
人が修行しても変容が起こらないと思うのは、実は自ら受け入れようとしない事が一番の原因なのじゃ。
今まで生きて来たこの自分の肉体も記憶も、全て捨てて良いとする覚悟が必要なのじゃ。
349 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/08(火) 17:39:23.76 ID:uCJqZ21H
>>345
思いますが全て捨てて良い、とするのは普通の人が想像するような我慢や諦めではないと思います。
空気が薄いところで酸素ボンベがないと生きられないと思っている人は、それに執着し、人に酸素を奪われそうになればゆるせないし
攻撃もやむをえないでしょう。
酸素もいらないでいられる、または酸素が豊富にあって困らないなら、そんな争いや執着はばかばかしく思えるでしょう。別にその人が
立派で素晴らしいから余裕があるわけではない。ただ楽で満たされているから。
他のことでもあてはまると思いますが、ずっとその状態をキープ出来る人はあえてこの世界で生きていることにばかばかしくなるんじゃないでしょうか?
この世界へ引き付ける引力みたいなものの層に逆らって突き抜けてしまえたら楽でしょうね。実際感覚、肉体がある限り実際に可能なのでしょうか。
自分は身体への執着がどうしても拭い去れません。感覚というものがあるからです。
351 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/08(火) 20:31:27.91 ID:Y4O/n9Ex
>>349 そのように思う者に無常という法が示されるのじゃ。
全ての物事は変転し、消え去っていくものじゃ。
この体も感覚もいずれ必ず捨てなければならないのじゃ。
自ら捨てる事で、永遠へと到達できるならば、その道を選ぶのが目覚めた者達の行ってきたことなのじゃ。
自ら目覚めを得た後は、あえて死ぬ事すらないと気づくのじゃ。
いずれそれは何もしなくともやってくるものであるからのう。
352 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/08(火) 22:54:05.35 ID:uCJqZ21H
>>351
それは逆に言うこともできますよね。
いずれ死ぬなら別に今死ななくてもいい。あえて死のことなんか考えたくない。そうして死を意識せずに悟るのは難しかったりする。
どうせ消える、捨てないといけないにしても、生きている間、身体にいる間、感覚があるうちは自分の体も病気よりは健康、不快よりは快、
醜いよりは美しい、その方がいいと思ってしまう。肉体の感覚に負けてしまう。
何も今捨てる必要があるのか?あと普通は何十年も生きるだろうに?
そういう思いが執着になりふくらみ、人の欲になって表れている。そこに付け込んだ商売も多いです。
356 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/09(水) 21:12:05.26 ID:bP0HR22l
>>352 それが自我の思考なのじゃ。
多くの修行者が無我の手前で立ち止まるのも、その思考が原因なのじゃ。
死が訪れるのは実際にはいつか遠くとは限らないのじゃ。
若くとも事故や病気などで死ぬ者は多く居るものじゃ。
家を出て五分後に轢かれて死ぬかもしれん。
それが真の無常というものじゃ。
今直ぐにでも死が訪れるかも知れないと知って、修行者は励むのじゃ。
355 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/09(水) 19:43:17.55 ID:xTHxuv6d
>>345
>手などの肉体を観察しただけでも、それが己ではなく、己のものではないという気づきが生じ、
>厭離が起こるのじゃ。
それは認知科学でいうゲシュタルト崩壊っていうやつではないですか?
たとえば、例えば同じ漢字を長時間注視しているとその漢字の各部分がバラバラに見え、
その漢字が何という文字であったかわからなくなる現象。
オショーが面白い修行法としてローソク1本だけの灯りで鏡に写った自分の顔をしばらく
見つめるというのを紹介してました。やったことはないですが、これも同じですよね。
文字ではなく手や顔でゲシュタルト崩壊を起こせば、悟りに近づけるんでしょうか。
357 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/09(水) 21:18:08.91 ID:bP0HR22l
>>355 観察による厭離とゲシュタルト崩壊は番うのじゃ。
観察は気づきによる厭離を起こすのじゃ。
ゲシュタルト崩壊は同一の刺激で起こる慣れによる無感覚を利用するのじゃ。
しかし、効果は同じようなものじゃ。
無感覚でも気づきでも、対象の自己同一化を止められるのじゃ。
それがおぬしに合っていれば、悟りに近づけるかもしれんのじゃ。
何でも試してみると良いのじゃ。
しかし、その方法でも己がなくなるという恐れを越えなければ、自分で修行を止めてしまうじゃろう。
必ず悟りを得るという勇気と決意が肝心なのじゃ。
369 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/14(月) 00:54:44.36 ID:qToIWHCR
横レスで失礼
むかーし、疲れてシャワー浴びながら鏡に映る顔をボーっとみていたらゲシュタルト崩壊が起きて
それにビックリしてしまい、以後はなんだか鏡に映る顔を長々と見るのを避ける傾向が生まれてしまった。
おそらくそのまま崩壊を進めたら自分が壊れてしまうかもしれないという思い込みに陥っているのだと思う。
自画像ゲシュタルト崩壊を再度体験して恐怖を受け入れるべきなのでしょうか?
371 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/14(月) 20:39:21.18 ID:/YQnL4Uh
>>369 おぬしが悟りや真実を求めているならば、またやってみると良かろう。
自我が無くとも特に死んだりはしないのじゃ。
幻想が無くなるだけであるからのう。
肉体が己であると言う観念は、幻想に過ぎないものじゃ。
それが幻想であると自ら確信し、恐れを乗り越えて進むのじゃ。
372 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/14(月) 22:10:17.65 ID:qToIWHCR
>>371
ありがとう。
今まで自分の顔を鏡でちゃんと見ないのは注意力がないからだと思っていた(髭や鼻毛の手入れミスが多い)
スレ読んでたら過去の体験が原因かもしれないと今回気づいた。
自分が気づかないだけで、些細な事に対して恐怖したり自分を守ろうと行動している事は多いのかも。
何かあったらまたよろしくです。
379 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/15(火) 19:53:37.13 ID:hgw2QcBX
>>372 どういたしまして、またおいでなさい。
鬼和尚さん、修行のプログラムはつくれませんか
初めての人は、これこれのことを何日続ける。これこれの効果がでたら次のステップに進む
みたいな
335 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/06(日) 20:45:23.23 ID:zuygEH8q
>>328 そのようなものを作ってしまうと、全部やったから悟った筈だと勘違いする者が出るのじゃ。
自分を観る過程はマニュアルやプログラムでは出来ないものであるからのう。
クリシュナムルティも言って居るが、それらは心を鈍くさせ、気づきを少なくしてしまうものなのじゃ。
人には難しい事であるが、ただひたすらに集中し、己を観察し続けるしかないのじゃ。
336 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/06(日) 21:49:58.57 ID:/4YSBkf3
そうですか。ひとりふたり勘違いするひとが出ても、それを上回る数のひとにメリットが
あればそれでいいような気がするんですが。
観察にしても、果たしてこのやりかたで合ってるのか、目安としていつまでやればいいのか、
どうなれば続けてきた甲斐があったのか、わかりません。
それこそ頭の中に光が見えるだの、クンダリニーがあがるだのみたいなわかりやすい
目安があればいいんですが、そういうのは妄想だって前にいってましたし。
なんの結果も期待せず、ただ観察を続けること自体が結果であり目的である、と考える
しかありませんか。
345 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/07(月) 20:05:53.85 ID:PH6TgoUw
>>336 もし自分が変化して行く事を恐れないならば、直ぐにでも結果はわかるじゃろう。
手などの肉体を観察しただけでも、それが己ではなく、己のものではないという気づきが生じ、厭離が起こるのじゃ。
マハリシは教えも知らず、ただ死に行く己を追及して一晩で悟ったのじゃ。
禅でも頓悟といい、今この瞬間にも悟りは訪れる事を説いておる。
人が修行しても変容が起こらないと思うのは、実は自ら受け入れようとしない事が一番の原因なのじゃ。
今まで生きて来たこの自分の肉体も記憶も、全て捨てて良いとする覚悟が必要なのじゃ。
349 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/08(火) 17:39:23.76 ID:uCJqZ21H
>>345
思いますが全て捨てて良い、とするのは普通の人が想像するような我慢や諦めではないと思います。
空気が薄いところで酸素ボンベがないと生きられないと思っている人は、それに執着し、人に酸素を奪われそうになればゆるせないし
攻撃もやむをえないでしょう。
酸素もいらないでいられる、または酸素が豊富にあって困らないなら、そんな争いや執着はばかばかしく思えるでしょう。別にその人が
立派で素晴らしいから余裕があるわけではない。ただ楽で満たされているから。
他のことでもあてはまると思いますが、ずっとその状態をキープ出来る人はあえてこの世界で生きていることにばかばかしくなるんじゃないでしょうか?
この世界へ引き付ける引力みたいなものの層に逆らって突き抜けてしまえたら楽でしょうね。実際感覚、肉体がある限り実際に可能なのでしょうか。
自分は身体への執着がどうしても拭い去れません。感覚というものがあるからです。
351 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/08(火) 20:31:27.91 ID:Y4O/n9Ex
>>349 そのように思う者に無常という法が示されるのじゃ。
全ての物事は変転し、消え去っていくものじゃ。
この体も感覚もいずれ必ず捨てなければならないのじゃ。
自ら捨てる事で、永遠へと到達できるならば、その道を選ぶのが目覚めた者達の行ってきたことなのじゃ。
自ら目覚めを得た後は、あえて死ぬ事すらないと気づくのじゃ。
いずれそれは何もしなくともやってくるものであるからのう。
352 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/08(火) 22:54:05.35 ID:uCJqZ21H
>>351
それは逆に言うこともできますよね。
いずれ死ぬなら別に今死ななくてもいい。あえて死のことなんか考えたくない。そうして死を意識せずに悟るのは難しかったりする。
どうせ消える、捨てないといけないにしても、生きている間、身体にいる間、感覚があるうちは自分の体も病気よりは健康、不快よりは快、
醜いよりは美しい、その方がいいと思ってしまう。肉体の感覚に負けてしまう。
何も今捨てる必要があるのか?あと普通は何十年も生きるだろうに?
そういう思いが執着になりふくらみ、人の欲になって表れている。そこに付け込んだ商売も多いです。
356 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/09(水) 21:12:05.26 ID:bP0HR22l
>>352 それが自我の思考なのじゃ。
多くの修行者が無我の手前で立ち止まるのも、その思考が原因なのじゃ。
死が訪れるのは実際にはいつか遠くとは限らないのじゃ。
若くとも事故や病気などで死ぬ者は多く居るものじゃ。
家を出て五分後に轢かれて死ぬかもしれん。
それが真の無常というものじゃ。
今直ぐにでも死が訪れるかも知れないと知って、修行者は励むのじゃ。
355 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/09(水) 19:43:17.55 ID:xTHxuv6d
>>345
>手などの肉体を観察しただけでも、それが己ではなく、己のものではないという気づきが生じ、
>厭離が起こるのじゃ。
それは認知科学でいうゲシュタルト崩壊っていうやつではないですか?
たとえば、例えば同じ漢字を長時間注視しているとその漢字の各部分がバラバラに見え、
その漢字が何という文字であったかわからなくなる現象。
オショーが面白い修行法としてローソク1本だけの灯りで鏡に写った自分の顔をしばらく
見つめるというのを紹介してました。やったことはないですが、これも同じですよね。
文字ではなく手や顔でゲシュタルト崩壊を起こせば、悟りに近づけるんでしょうか。
357 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/09(水) 21:18:08.91 ID:bP0HR22l
>>355 観察による厭離とゲシュタルト崩壊は番うのじゃ。
観察は気づきによる厭離を起こすのじゃ。
ゲシュタルト崩壊は同一の刺激で起こる慣れによる無感覚を利用するのじゃ。
しかし、効果は同じようなものじゃ。
無感覚でも気づきでも、対象の自己同一化を止められるのじゃ。
それがおぬしに合っていれば、悟りに近づけるかもしれんのじゃ。
何でも試してみると良いのじゃ。
しかし、その方法でも己がなくなるという恐れを越えなければ、自分で修行を止めてしまうじゃろう。
必ず悟りを得るという勇気と決意が肝心なのじゃ。
369 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/14(月) 00:54:44.36 ID:qToIWHCR
横レスで失礼
むかーし、疲れてシャワー浴びながら鏡に映る顔をボーっとみていたらゲシュタルト崩壊が起きて
それにビックリしてしまい、以後はなんだか鏡に映る顔を長々と見るのを避ける傾向が生まれてしまった。
おそらくそのまま崩壊を進めたら自分が壊れてしまうかもしれないという思い込みに陥っているのだと思う。
自画像ゲシュタルト崩壊を再度体験して恐怖を受け入れるべきなのでしょうか?
371 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/14(月) 20:39:21.18 ID:/YQnL4Uh
>>369 おぬしが悟りや真実を求めているならば、またやってみると良かろう。
自我が無くとも特に死んだりはしないのじゃ。
幻想が無くなるだけであるからのう。
肉体が己であると言う観念は、幻想に過ぎないものじゃ。
それが幻想であると自ら確信し、恐れを乗り越えて進むのじゃ。
372 :おさかなくわえた名無しさん:2013/01/14(月) 22:10:17.65 ID:qToIWHCR
>>371
ありがとう。
今まで自分の顔を鏡でちゃんと見ないのは注意力がないからだと思っていた(髭や鼻毛の手入れミスが多い)
スレ読んでたら過去の体験が原因かもしれないと今回気づいた。
自分が気づかないだけで、些細な事に対して恐怖したり自分を守ろうと行動している事は多いのかも。
何かあったらまたよろしくです。
379 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/01/15(火) 19:53:37.13 ID:hgw2QcBX
>>372 どういたしまして、またおいでなさい。
716 :おさかなくわえた名無しさん:2013/11/20(水) 15:32:51.87 ID:TQbfrrVz
鬼和尚さん、オリジナルの般若心経の現代語訳を作ってください
(他の人へ、他の訳は貼らないでください。ネットでいくらでも見れますから)
721 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/11/20(水) 21:52:44.70 ID:Wrs32/GP
>>716 般若心経は他の経と違い、最初に私はこのように聞いたと言う文句が無いのじゃ。
それは元からお釈迦様の教えではないと言う事を宣言しているのじゃ。
観自在菩薩が智慧の完成と言われる行をして、心身の全てを空と観想して、一切の苦厄を脱した。
舎利子よ、肉体は空と異ならず、空は肉体と異ならない、肉体は即ち空であり、空は即ち肉体である。
感覚も空であり、空は感覚と異ならない。感覚は即ち空であり、空は即ち感覚である。
想いも空であり、空は思いと異ならない。思いは即ち空であり、空は即ち思う事である。
分別も空であり、空は分別と異ならない。分別は即ち空であり、空は即ち分別する事である。
認識も空であり、空は認識と異ならない。認識は即ち空であり、空は即ち認識する事である。
舎利子よ、全ての事物を空と観想して、生まれる事は無く、滅する事は無く、汚れる事は無く、清くなる事は無く、増える事は無く、減る事も無いと見よ。
空と観れば肉体は無であり、感覚も無であり、想いも無であり、分別も無であり、認識も無である。
眼耳鼻舌身意も無であり、色声香味触法も無であり、眼によって成される界域から意識によって成される界域も無である。
修行のための法である無明や無明が尽きるという事も無く、老死も無く、老死が尽きる事も無い。
四諦の苦集滅道も無く、智慧も無く、何かの境地を得る事も無い。
得るという事も無いのであるから、菩薩達は智慧の完成によって心の妨げを無として、恐怖も無とする事が出来る。
全ての顛倒や幻想を厭離する事が出来て、涅槃を極めるのである。
智慧の完成によって無上にして正しい悟りを得るのである。
故に智慧の完成が一切の苦を除く、真実にして虚しくない偉大な呪文と知るのじゃ。
故に智慧の完成の呪文も記すのである。
羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝菩提僧莎訶
746 :おさかなくわえた名無しさん:2013/11/21(木) 12:14:06.63 ID:/ouPwykj
>>721
長いのをご丁寧にありがとうございます
これは偽経なんですか?!
真実じゃないですか?
びっくりです・・・
なんでこれを唱えると神仏が喜ぶんでしょうか?
754 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/11/21(木) 20:28:40.64 ID:1ocsNX9m
>>746 お釈迦様が説いたのではないのじゃ。
しかし、おぬしがこのとおりに実践して一切の苦厄を滅したならば、それが真実となるのじゃ。
おぬしが実践して真実に至れば神仏も喜ぶのじゃ。
苦を滅した修行者が増えたのであるからのう。
鬼和尚さん、オリジナルの般若心経の現代語訳を作ってください
(他の人へ、他の訳は貼らないでください。ネットでいくらでも見れますから)
721 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/11/20(水) 21:52:44.70 ID:Wrs32/GP
>>716 般若心経は他の経と違い、最初に私はこのように聞いたと言う文句が無いのじゃ。
それは元からお釈迦様の教えではないと言う事を宣言しているのじゃ。
観自在菩薩が智慧の完成と言われる行をして、心身の全てを空と観想して、一切の苦厄を脱した。
舎利子よ、肉体は空と異ならず、空は肉体と異ならない、肉体は即ち空であり、空は即ち肉体である。
感覚も空であり、空は感覚と異ならない。感覚は即ち空であり、空は即ち感覚である。
想いも空であり、空は思いと異ならない。思いは即ち空であり、空は即ち思う事である。
分別も空であり、空は分別と異ならない。分別は即ち空であり、空は即ち分別する事である。
認識も空であり、空は認識と異ならない。認識は即ち空であり、空は即ち認識する事である。
舎利子よ、全ての事物を空と観想して、生まれる事は無く、滅する事は無く、汚れる事は無く、清くなる事は無く、増える事は無く、減る事も無いと見よ。
空と観れば肉体は無であり、感覚も無であり、想いも無であり、分別も無であり、認識も無である。
眼耳鼻舌身意も無であり、色声香味触法も無であり、眼によって成される界域から意識によって成される界域も無である。
修行のための法である無明や無明が尽きるという事も無く、老死も無く、老死が尽きる事も無い。
四諦の苦集滅道も無く、智慧も無く、何かの境地を得る事も無い。
得るという事も無いのであるから、菩薩達は智慧の完成によって心の妨げを無として、恐怖も無とする事が出来る。
全ての顛倒や幻想を厭離する事が出来て、涅槃を極めるのである。
智慧の完成によって無上にして正しい悟りを得るのである。
故に智慧の完成が一切の苦を除く、真実にして虚しくない偉大な呪文と知るのじゃ。
故に智慧の完成の呪文も記すのである。
羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝菩提僧莎訶
746 :おさかなくわえた名無しさん:2013/11/21(木) 12:14:06.63 ID:/ouPwykj
>>721
長いのをご丁寧にありがとうございます
これは偽経なんですか?!
真実じゃないですか?
びっくりです・・・
なんでこれを唱えると神仏が喜ぶんでしょうか?
754 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/11/21(木) 20:28:40.64 ID:1ocsNX9m
>>746 お釈迦様が説いたのではないのじゃ。
しかし、おぬしがこのとおりに実践して一切の苦厄を滅したならば、それが真実となるのじゃ。
おぬしが実践して真実に至れば神仏も喜ぶのじゃ。
苦を滅した修行者が増えたのであるからのう。
38 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/13(金) 06:43:50.72 ID:t2fFfN2G
私は子供の頃から想像力が逞しく、毎日のように朝方、起床時に怖い夢を見たり、嫌な記憶が蘇って猛烈な憂鬱感と孤独感と恐怖に怯えます。
寝ボケた頭で、そのパニック状態を脱する方法はありますか。
42 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/13(金) 21:02:51.72 ID:hen7P7jO
>>38 修行によって不動心を得たり、夢をコントロールする事も出来るのじゃ。
もっと簡単な事はおぬしが欲するものや理想とする環境となったことを、嫌な気持ちになるたびにイメージしたらよいのじゃ。
大金が手に入り、女子にももてもてで大邸宅に住んでるというような、都合の良いイメージを強くイメージして思い浮かべるのじゃ。
絵とか写真を加工して眼に見えるようにしても良いのじゃ。
どんどんやってみるのじゃ。
43 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/13(金) 21:53:15.02 ID:BaMv1SmS
なるほど、やってみます。根拠もなく、自分を素晴らしい存在なのだとイメージしてみます。
44 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/14(土) 10:51:55.33 ID:WVl0mdpc
ところで、己に都合の良いイメージを強く思い浮かべるとありますが、
ふと現実を見れば、実際には何の特徴も無い地味な自分の姿が目に映るわけですが、
その度に虚しさや失望を感じて憂鬱になったりはしないでしょうか。
47 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/14(土) 21:13:49.53 ID:zP2KuHpP
>>43 そうじゃ、やってみるのじゃ。
>>44 イメージと強く一体化すれば、逆になぜ自分はそのような小さい事で悩んでいたかと想うのじゃ。
人が認識するものは言葉とイメージだけであるから、それが変われば自分が変わり、世界も変わってしまうのじゃ。
イメージが現実になってしまうのじゃ。
48 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/14(土) 23:32:07.61 ID:KbUYhVLO
>>47
その考えはおもしろいですね
記憶の積み重ねによる条件反射的なイメージと価値判断を一切無視していったら…
どうなるんでしょう
おもしろそうです
49 :44:2013/09/15(日) 06:32:32.51 ID:9HmGUPDM
「イメージと一体化する」というのは、実際には大邸宅に住まず、モテモテになる事が叶わなくとも、
自分はそうなのだと思い込むだけで、やがて本当にそういう人間になれたと感じる錯覚が生まれ、気持ちが安定するということでしょうか。
嘘を自分に吹き込み続けると言いますか。
例えば、4畳間のせんべい布団で寝ているだけでも、「ここは高級ホテルの最上階スイートルームなのだ」と思い込めば、
それなりに気持ち良く眠れるよ、みたいな話でしょうか。
そして、たとえそれが虚しいイメージに過ぎず、実際には小さな貸家に住んでると知っていても、そして毎朝それを目の当たりにするとしても、それを無視し続けるように「俺は大邸宅に住んでいる!」とイメージし続けるのでしょうか。
それとも、そうイメージしているだけで、実際に大邸宅も美女も手に入るという事なのでしょうか。
52 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/15(日) 21:19:25.96 ID:wTT0YCrb
>>48 偉大な者になるじゃろう。
偉人と言うものは自分を確信している者じゃ。
確信のない大衆はそのような者に惹かれていくのじゃ。
>>49 両方じゃ。
気持ちも落ち着き、現実にもなるじゃろう。
ものごとは心によって作り出されるとお釈迦様も言っているのじゃ。
道路も建物も橋も先ずはイメージとして人の中にあり、努力する事で現実になったのじゃ。
53 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/16(月) 18:58:26.35 ID:TpwcBCjB
>>52
あこがこうだとかああだとか比較をいっさいせずワシは神じゃ~でいいのですか?
それでいいのなら表面上隠しながら唯我独尊ごっこをやろうと思います
この場合自分以外の存在をどういうふうに見ればいいのでしょう
宇宙にぽつんと自分ひとりがいて他はただの映像に思えてうすら寂しくなります
54 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/16(月) 20:54:08.52 ID:Ljll9aSB
>>53 そうじゃ、信じて集中するのじゃ。
他の者は自分の子供のように思い、慈悲を与えると良いのじゃ。
慈悲によってますます偉大になるじゃろう。
55 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/17(火) 10:58:24.00 ID:BAVdEuuO
>>54
アリガトサー
61 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/17(火) 21:44:11.42 ID:sU2s1U5r
>>55 どういたしまして、またおいでなさい。
62 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/18(水) 07:43:13.03 ID:BQ/Zx/GQ
>>54
一応聞きますが、他人に慈悲を与えるのは、傲慢や思い上がりとは違いますよね。
世の中にはそういうふうに他人を見下して、自分の欠点を省みず、大した能力も無いままに偉ぶる人もいますが、
誰からも相手にされず身を滅ぼす人もいます。
68 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/18(水) 21:23:33.01 ID:z8aq+vy2
>>62 そうじゃ、違うのじゃ。
慈悲とは他人と自分を同じように慈しみ憐れむことなのじゃ。
傲慢とは正反対の感情といえるのじゃ。
私は子供の頃から想像力が逞しく、毎日のように朝方、起床時に怖い夢を見たり、嫌な記憶が蘇って猛烈な憂鬱感と孤独感と恐怖に怯えます。
寝ボケた頭で、そのパニック状態を脱する方法はありますか。
42 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/13(金) 21:02:51.72 ID:hen7P7jO
>>38 修行によって不動心を得たり、夢をコントロールする事も出来るのじゃ。
もっと簡単な事はおぬしが欲するものや理想とする環境となったことを、嫌な気持ちになるたびにイメージしたらよいのじゃ。
大金が手に入り、女子にももてもてで大邸宅に住んでるというような、都合の良いイメージを強くイメージして思い浮かべるのじゃ。
絵とか写真を加工して眼に見えるようにしても良いのじゃ。
どんどんやってみるのじゃ。
43 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/13(金) 21:53:15.02 ID:BaMv1SmS
なるほど、やってみます。根拠もなく、自分を素晴らしい存在なのだとイメージしてみます。
44 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/14(土) 10:51:55.33 ID:WVl0mdpc
ところで、己に都合の良いイメージを強く思い浮かべるとありますが、
ふと現実を見れば、実際には何の特徴も無い地味な自分の姿が目に映るわけですが、
その度に虚しさや失望を感じて憂鬱になったりはしないでしょうか。
47 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/14(土) 21:13:49.53 ID:zP2KuHpP
>>43 そうじゃ、やってみるのじゃ。
>>44 イメージと強く一体化すれば、逆になぜ自分はそのような小さい事で悩んでいたかと想うのじゃ。
人が認識するものは言葉とイメージだけであるから、それが変われば自分が変わり、世界も変わってしまうのじゃ。
イメージが現実になってしまうのじゃ。
48 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/14(土) 23:32:07.61 ID:KbUYhVLO
>>47
その考えはおもしろいですね
記憶の積み重ねによる条件反射的なイメージと価値判断を一切無視していったら…
どうなるんでしょう
おもしろそうです
49 :44:2013/09/15(日) 06:32:32.51 ID:9HmGUPDM
「イメージと一体化する」というのは、実際には大邸宅に住まず、モテモテになる事が叶わなくとも、
自分はそうなのだと思い込むだけで、やがて本当にそういう人間になれたと感じる錯覚が生まれ、気持ちが安定するということでしょうか。
嘘を自分に吹き込み続けると言いますか。
例えば、4畳間のせんべい布団で寝ているだけでも、「ここは高級ホテルの最上階スイートルームなのだ」と思い込めば、
それなりに気持ち良く眠れるよ、みたいな話でしょうか。
そして、たとえそれが虚しいイメージに過ぎず、実際には小さな貸家に住んでると知っていても、そして毎朝それを目の当たりにするとしても、それを無視し続けるように「俺は大邸宅に住んでいる!」とイメージし続けるのでしょうか。
それとも、そうイメージしているだけで、実際に大邸宅も美女も手に入るという事なのでしょうか。
52 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/15(日) 21:19:25.96 ID:wTT0YCrb
>>48 偉大な者になるじゃろう。
偉人と言うものは自分を確信している者じゃ。
確信のない大衆はそのような者に惹かれていくのじゃ。
>>49 両方じゃ。
気持ちも落ち着き、現実にもなるじゃろう。
ものごとは心によって作り出されるとお釈迦様も言っているのじゃ。
道路も建物も橋も先ずはイメージとして人の中にあり、努力する事で現実になったのじゃ。
53 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/16(月) 18:58:26.35 ID:TpwcBCjB
>>52
あこがこうだとかああだとか比較をいっさいせずワシは神じゃ~でいいのですか?
それでいいのなら表面上隠しながら唯我独尊ごっこをやろうと思います
この場合自分以外の存在をどういうふうに見ればいいのでしょう
宇宙にぽつんと自分ひとりがいて他はただの映像に思えてうすら寂しくなります
54 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/16(月) 20:54:08.52 ID:Ljll9aSB
>>53 そうじゃ、信じて集中するのじゃ。
他の者は自分の子供のように思い、慈悲を与えると良いのじゃ。
慈悲によってますます偉大になるじゃろう。
55 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/17(火) 10:58:24.00 ID:BAVdEuuO
>>54
アリガトサー
61 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/17(火) 21:44:11.42 ID:sU2s1U5r
>>55 どういたしまして、またおいでなさい。
62 :おさかなくわえた名無しさん:2013/09/18(水) 07:43:13.03 ID:BQ/Zx/GQ
>>54
一応聞きますが、他人に慈悲を与えるのは、傲慢や思い上がりとは違いますよね。
世の中にはそういうふうに他人を見下して、自分の欠点を省みず、大した能力も無いままに偉ぶる人もいますが、
誰からも相手にされず身を滅ぼす人もいます。
68 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2013/09/18(水) 21:23:33.01 ID:z8aq+vy2
>>62 そうじゃ、違うのじゃ。
慈悲とは他人と自分を同じように慈しみ憐れむことなのじゃ。
傲慢とは正反対の感情といえるのじゃ。
720 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/26(日) 18:17:11.83 ID:UDp0hDVY
鬼和尚様
数年前に、死を考えるほど辛いとき、すごい経験をいたしました。
気づくと、なんっっっにも、なかったのです。
気づく前は、自分がいることすら、五感すら消えていて、でも、目は覚めていたのです。
時間も、その状態で何分経ったのか、何時間経ったのか、わかりませんでした。
心が完全に無で、そのときに
「あんなに苦しかったはずなのに、状況は変わっていないのに、まったく苦しくない」
と不思議な気持ちになりました。
それから、むくむくと自分が出てきて、そのうちにいつもの状態に戻りましたが、
数年経つ今も、あのときに感じた、「苦しみは心が作り出すものである」
という感覚は残っております。
また、その数カ月後、
自分も他人も世界のすべてが同じもので出来ていることに突然気づきました。
一人一人は自分を自分だと思って、大事にして、顔とか名前とかを気にして、
記念とか思い出とか作っているけれど、それをいい意味で心からくだらないと思いました。
自他の区別がない、すごい感覚でした。
これも、だんだん元に戻りました。w
これはなんだったのでしょうか?
これらの経験で、かなり世界観は変わったのですが、
修行をすれば、これが普通になるのでしょうか?
まだ死ぬのは怖いです。
729 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/26(日) 21:39:17.19 ID:7nTUJFCS
>>720 自己喪失の体験とか言われておるのじゃ。
自我のイメージが投射されなくなったのじゃな。
サマーディと同じなのじゃ。
恐がる必要は無いのじゃ。本当はそれが本来の状態なのじゃ。
760 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/27(月) 19:13:17.63 ID:BoE+Y11h
>>729
鬼和尚様、ありがとうございます!
自己喪失の体験でサマーディと同じなのは、1つ目と2つ目とどちらもでしょうか?
あと、説明が悪かったのですが、
こんな経験をしたのに、死ぬのが怖いままだ、という意味です。
どちらも、あの感覚が続いたら、普通に生きていかれるのだろうか?と感じてしまいました。
と同時に、すごく楽でした。
考えなくても、正解がどんどんわかって、
他人との隔絶がなくて、他人と関わるときの不安や緊張が全然なくなっていました。
その後ですが、3つ目の経験があります。
家でぼーっと考えていたら、突然、自分の感情の原因をどんどんさかのぼりはじめて、
1秒とかですごい速さで全部さかのぼって、
そうしたら最後は、感情の源泉が単なる「自我」だということがわかったのですが、
そこをさかのぼると、な、なんと、なんと、そこには何もなかったのです!!!
すごくびっくりして、思わず一人で、うわあ!!!と叫んでしまいました。
なにもないものをあると思って、怒ったり嬉しくなったりしているんだ、と思い、
それから、自分の感情がすべて手に取るように見えて、
感情が動かなくなって、ものすごく視点が高くなりました。
しかし、これも、1ヶ月位でいつもの自分に戻りました。w
これはなんなのでしょうか?
この状態には、また戻りたいです!!
769 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/27(月) 22:14:15.17 ID:TNN+H1lu
>>760 そうじゃな。
一度目の体験で自我が離れ易くなったのじゃろう。
死を観ていなかったからじゃろう。
本当は全てが一つと気づいたならば、死も無いと判る筈なのであるがのう。
死はこの肉体だけの作用であるから全てが一つならば、全てのほんの少しの一部である肉体が無くなっても僅かな変化の他は何も変わらないと気づくのじゃ。
それも自我が離れたのじゃろう。
数息観などの修行をしたら良いのじゃ。
そのような体験があれば速やかに行けるじゃろう。
806 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/28(火) 19:50:45.23 ID:sxkC7ICn
>>769
鬼和尚様、お返事をありがとうございます。
まったくの無になって、戻ってきた者です。
> 死を観ていなかったからじゃろう。
> 本当は全てが一つと気づいたならば、死も無いと判る筈なのであるがのう。
> 死はこの肉体だけの作用であるから全てが一つならば、全てのほんの少しの一部である肉体が無くなっても僅かな変化の他は何も変わらないと気づくのじゃ。
たしかに、おっしゃるとおりですよね・・・。
お答えをいただき、あの感覚を静かに思い出してみました。
すると、無我の状態になっているときには、「死ぬ」とか「もし死んだら」とかを、
まったく思いつかない、そんな次元ではなかった、と思いました。
「死ぬ」という概念なんて、存在しない、という感覚です。
でも、そんなのおかしい、という気持ちも少しあったのかもしれません。
我に返ったあとで思ったのは、「あの状態で普通に生きられるのだろうか?」でした。
友人で、出家している人にこの体験を話したら、すぐに通じて、
その人は半年、その無我の状態だったことがある、と言われました。
でも、普通に生きられた、おかしなことなんてまったくしなかった、と言われました。
その人はやはり、ちょっと普通とは違う雰囲気があります。
静かなのに、存在感がある、という感じです。
修行をすれば、元に戻らなくなるのでしょうか?
私が実感したのは、私は私の自我があるから、生きているのが楽しい、
と思っているということです。
無の状態のときは、楽でしたし、幸せでしたが、
なんだかこう、生きる実感がないといいますか、重力がないというか、そんな気がしてしまいます。
だから、死ぬことで、自分が自分でなくなるのが怖いのだと思います。
長くなりましたが、鬼和尚はいかが思われますか?
832 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/28(火) 22:09:36.25 ID:WJJY8fRt
>>806 そうじゃ、修行すれば常にそうなるじゃろう。
それが本来の状態なのじゃ。
それはまだ自我が自分であると言う観念から離れていないからじゃ。
真の導師に付いて学び修行したのではなく、たまたま自我が離れただけであるからのう。
本当に自我を観て離れたのならば、それが自分ではなく、観念であり、自分であると想っていたのは謬見であったと気づいて永遠に離れるのじゃ。
14 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 09:39:13.69 ID:5RDkC5Y0
鬼和尚様
前スレで私の体験を3つお聞きいただき、サマーディと同じだと教えていただいた者です。
自分の体験が何なのかがわかったことで、少し整理ができ、
「あの状態にずっとなれたらいいのだ、あれが本当なのだ」と確認でき、スッキリいたしました。
ところで、今日は4つ目の話をお聞きいただきたいのです。
これももしかしたら、サマーディと同じなのでしょうか?
私は小学校1,2年生くらいのとき、ときどき、不思議な至福を経験しておりました。
私は「ひろ(仮名)」と親兄弟などに呼ばれておりました。
家では自分のことを「ひろがこうしたらね」「ひろも食べる」などと言っており、
頭の中で考えるときも、「ひろは明日早く起きないと」などと考えておりました。
学校から、よく一人であれこれ考えながら帰っておりました。
「ひろは~」「ひろの~」と考えていると、
ときどき「ひろって何だろう・・・?」と不思議になるのです。
15 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 09:39:49.81 ID:5RDkC5Y0
そして、「どうして頭にはどんどん考えが浮かぶんだろう」
「考えは、どこから湧いてくるんだろう」
「ひろというのは、この頭の内側、体の内側のことなのだろうか」
「ひろが見ているこの景色は、いったい、『何が』『何を』見ているのだろう」
「この考えがひろなのだろうか」「この手足は何が動かしているのだろうか」
「ひろって何、ひろって何、ひろって何、ひろ、ひろ、ひろ、ひろ・・・・・・・・・・」
と考えていると、どんどん不思議な、不安な、変な感覚になり、
何回かに一回、成功すると、ふわっ!と意識が「飛ぶ」のです。
飛ぶというのは気絶とかではなく、離陸するという言葉がピッタリです。
そして、離陸に成功すると、なんと、そこは、一面の金色の光輝く世界なのです。
足は家に向かって歩いているのですが、
そこにはひろも世界も景色もなく(見えているのに見ていないような感覚)、
ただただ金色のイメージしかありません。
言葉には表せない幸せで、永遠にその状態でいたいのです!!(うっとり)
しかし、足は自動的に家に帰りますから、母と話をすると、徐々に自分に戻ります。
あまりに幸せなので、毎日トライしていました。
これは鬼和尚のおっしゃる、集中と観察による自我の厭離でしょうか。
鬼和尚がおっしゃるのは、修業によって、この状態を意図的に作るということでしょうか?
こういう話は誰にしてもわかってもらえず、まあわかってもらおうとも思いませんでしたが、
鬼和尚様はすべて解明してくださるので、嬉しくなり、話してみたくなりました!
ただの偶然かつバラバラな体験で終わらず、方向性を見いだせてきたのは、鬼和尚のお陰です。
ありがとうございます。
16 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 09:42:36.34 ID:5RDkC5Y0
さらに鬼和尚にご質問です。
今までお話したお話
1,気づいたら自分の存在も忘れ、完全な無の状態で数時間経っていた
2,すべては同じ物質からできていることがわかり、自他の区別が消えた
3,自分の感情の源泉は自我であるが、実際にそんなものはないとわかった
4,自分というものを見つめていった結果、光輝く至福の世界に飛べた
これらは、私にとっては、すべて別々の、ちょっと不思議な体験だと思っていました。
しかし、すべてはサマーディという同じものだとしたら、どうしてこんなに違うのでしょうか?
ということは、いろいろな人がサマーディを体験しても、人それぞれの体験は違うということなのでしょうか?
とくに1なんて、完全な無のまま1年とか10年とか経っていたら、すごく困るだけなので、特に望まないのですが・・・。
また、5つ目のお話も聞いていただけますでしょうか?w
私は幼少の頃からある病気を持っていて、それが非常な痛みを伴うのです。
その病気のスレを見ると、「痛みが来ると、思わず神様に許しを乞う」と書いてあるくらいの痛みで、
私もひどいときは、涙を流し、うめきながら布団で丸まっています。
しかし、そんなことが20年とか続き、ついにすごい技を会得いたしました。
「痛いのは嫌だ、消えてほしい」と思うからつらいのだ、ということに気づいたのです。
だから、「はい、どうぞ、私はもう負けました。好きなように暴れてください」と完全降伏して、
まな板の鯉として、両手を広げて痛みを迎え入れることにしたのです。
すると、どうでしょう。
なるようにまかせていると、痛みと私が一体化し、痛みは消え、そのうちに私は眠ってしまうのです。(゚∀゚)キタコレ!!
これは、なんでしょうか?きっとこれは、心の苦痛にも当てはまると思うのです!!
よろしくお願いいたします。
25 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 18:24:05.03 ID:+MaBOdqp
>>16
単なる独り言のコメントですが・・
苦痛を受け容れる(降参する)というのは、ある意味正しいでしょうね。
確か白隠禅師も、最後の悟りでそれを得たと思います。
しかし本当に「覚った」時、覚りはそれとも違うものだったのを、知ったそうです。
47 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/31(金) 21:33:11.54 ID:yruodCkz
>>14>>15 それも自分を追求して無我になったと言えるじゃろう。
そうじゃ、そのように己を追及してそれが幻想と知るのじゃ。
>>16 それらの体験はそれぞれ忘我であったり、忘我による気づきであったり、自我への気づきであったり、忘我による快なのじゃ。
我を保ったままの気付きもあり、完全に我を忘れたのもあるから記憶によって違うようにも思えるのじゃ。
同じ体験でも言葉が違ったりするのじゃ。
人にはそれぞれ固有の言語体系があるからのう。
それが苦の性質なのじゃ。
痛み箔ではなく、痛みを厭う心の働きが苦になるのじゃ。
苦は心の中にしかない故に、放棄すれば消えるのじゃ。
56 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 23:15:39.02 ID:5RDkC5Y0
>>47
鬼和尚様、ありがとうございます!!
> 我を保ったままの気付きもあり、完全に我を忘れたのもあるから記憶によって違うようにも思えるのじゃ。
つまり、同じものを感じたのだが、感じ方が違っただけだ、ということでしょうか?
> 同じ体験でも言葉が違ったりするのじゃ。
> 人にはそれぞれ固有の言語体系があるからのう。
たしかに、人それぞれの言語体系は大なり小なり違いはあると思います。
ですから、時代や国が違えば違うほど、説明は変わってくるように思います。
しかし、今回私が
「すべてはサマーディという同じものだとしたら、どうしてこんなに違うのでしょうか?」
「人それぞれの体験は違うということなのでしょうか?」
とお聞きしたことについては、
「同じものを違う角度から感じた」「自我の消え方、残り方が違っていた」
ということのほうが近いのかな、と感じたのですが、いかがでしょうか?
> それが苦の性質なのじゃ。
> 痛み箔ではなく、痛みを厭う心の働きが苦になるのじゃ。
> 苦は心の中にしかない故に、放棄すれば消えるのじゃ。
以前、鬼和尚が、
「本当に病気による痛みなら、遠離しても?(ここは曖昧です)消えないのじゃ」
のようなことをおっしゃっていたように思います。
私の痛みは心ではなく、病気により物理的に痛いと思いますが、消えました。
仮に末期がんの痛みや腕をもがれた痛みなどであっても、心を放棄すれば消えると思われますか?
私は自分の経験から、意志や集中力によって完全に降伏すれば消せると感じます。
57 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 23:25:31.92 ID:5RDkC5Y0
>>25
独り言ということですが・・・
苦痛を受け入れること≠悟りということでしょうかね・・・?
もちろんそういう人の境地が分かるはずもないのですが、
苦痛を受け入れた結果、悟りに至ったのかな、と現時点での私は感じました。
59 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 23:37:10.40 ID:yszQSxW/
鬼和尚、>>57は悟りを開いたと思いますか?
85 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/02/01(土) 21:02:43.03 ID:t54GH5Wu
>>56 同じでも観ているものが違ったり、記憶が違ったりしているのじゃ。
おぬしが修行によって常にその状態には入れるならば、同じ境地と判るのじゃ。
しかし偶然に入るだけであるから見るものや感じ方が度々違うのじゃ。
例えば海底に潜った者が素人ならば右を見て海藻があり、別の時に同じ所に潜って左を見たらさんごがあったから別の場所と思うようなものじゃ。
玄人ならばもぐった所で全て見回し同じ所と気づくのじゃ。
観察による厭離によって消える痛みは本当は痛みではなく、観念であったからなのじゃ。
本当に肉体による痛みならば観察では消えないのじゃ。
痛みを苦で無くする事は出来るがのう。
>>59 開いていないのじゃ。
89 :おさかなくわえた名無しさん:2014/02/01(土) 21:51:52.56 ID:ojZaOgCG
>>57
85 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2014/02/01(土) 21:02:43.03 ID:t54GH5Wu
>>59 開いていないのじゃ。
・・・・だそうです。
残念でしたね・・・。
91 :おさかなくわえた名無しさん:2014/02/02(日) 06:51:00.07 ID:hrPr0Eu2
>>85
ありがとうございます!
毎回違う体験のように思えることについて、ご説明で非常によくわかりました。
痛みについては、私が消えたと感じるならば、観念であり、
肉体的な痛みではないということですね。
しかし、おそらく観念ではなく病気によるものなので、
消えたのではなく、痛いけれども受け入れることで苦ではなくなり、
それを痛みが消えたと勘違いしている可能性もあるでしょうか?
今度同じ状況になったときに、観察してみます。
92 :おさかなくわえた名無しさん:2014/02/02(日) 07:01:35.83 ID:hrPr0Eu2
>>89
間違いなく悟りは開いておりません。
私は何度か無我を体験した、普通の人です。
鬼和尚の書いたものを拝読し、
無我がいつもの状態になった人を悟っているというのでは、と理解しております。
そしてさらに、無我の認識もなくなることが、これ以上ない境地なのかな、と。
たとえばアメリカに行ったことがない人がいて、私は数回アメリカ旅行に行った人で、
悟った人というのはアメリカ在住の人、という感じに捉えております。
これでいえば、国籍を取得してアメリカ人になるのが最終的な境地なのでしょうか?w
鬼和尚様、いかがでしょう?
121 :おさかなくわえた名無しさん:2014/02/02(日) 14:46:38.08 ID:QIgrsB6A
小さい悟りというのはどういう状態ですか
大きい悟りを得るともし生まれ変わっても2度と我が発生しないですか
思考に干渉して強制的に観照が起こる無理やり解脱マシーンは発明されませんか
絵的に美しくないですか
140 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/02/02(日) 21:48:50.21 ID:FzIBEeA9
>>91 そうかもしれん。
良く観察してみるのじゃ。
>>92 それでも良いのじゃ。
忘我でも真実の世界を垣間見れるのじゃ。
やがては誰もが彼岸に来るのじゃ。
>>121 小さい悟りとはサマーディや無我になった状態なのじゃ。
心の悟りを得れば二度と生まれないと知るじゃろう。
いずれできるかも知れん。
鬼和尚様
数年前に、死を考えるほど辛いとき、すごい経験をいたしました。
気づくと、なんっっっにも、なかったのです。
気づく前は、自分がいることすら、五感すら消えていて、でも、目は覚めていたのです。
時間も、その状態で何分経ったのか、何時間経ったのか、わかりませんでした。
心が完全に無で、そのときに
「あんなに苦しかったはずなのに、状況は変わっていないのに、まったく苦しくない」
と不思議な気持ちになりました。
それから、むくむくと自分が出てきて、そのうちにいつもの状態に戻りましたが、
数年経つ今も、あのときに感じた、「苦しみは心が作り出すものである」
という感覚は残っております。
また、その数カ月後、
自分も他人も世界のすべてが同じもので出来ていることに突然気づきました。
一人一人は自分を自分だと思って、大事にして、顔とか名前とかを気にして、
記念とか思い出とか作っているけれど、それをいい意味で心からくだらないと思いました。
自他の区別がない、すごい感覚でした。
これも、だんだん元に戻りました。w
これはなんだったのでしょうか?
これらの経験で、かなり世界観は変わったのですが、
修行をすれば、これが普通になるのでしょうか?
まだ死ぬのは怖いです。
729 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/26(日) 21:39:17.19 ID:7nTUJFCS
>>720 自己喪失の体験とか言われておるのじゃ。
自我のイメージが投射されなくなったのじゃな。
サマーディと同じなのじゃ。
恐がる必要は無いのじゃ。本当はそれが本来の状態なのじゃ。
760 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/27(月) 19:13:17.63 ID:BoE+Y11h
>>729
鬼和尚様、ありがとうございます!
自己喪失の体験でサマーディと同じなのは、1つ目と2つ目とどちらもでしょうか?
あと、説明が悪かったのですが、
こんな経験をしたのに、死ぬのが怖いままだ、という意味です。
どちらも、あの感覚が続いたら、普通に生きていかれるのだろうか?と感じてしまいました。
と同時に、すごく楽でした。
考えなくても、正解がどんどんわかって、
他人との隔絶がなくて、他人と関わるときの不安や緊張が全然なくなっていました。
その後ですが、3つ目の経験があります。
家でぼーっと考えていたら、突然、自分の感情の原因をどんどんさかのぼりはじめて、
1秒とかですごい速さで全部さかのぼって、
そうしたら最後は、感情の源泉が単なる「自我」だということがわかったのですが、
そこをさかのぼると、な、なんと、なんと、そこには何もなかったのです!!!
すごくびっくりして、思わず一人で、うわあ!!!と叫んでしまいました。
なにもないものをあると思って、怒ったり嬉しくなったりしているんだ、と思い、
それから、自分の感情がすべて手に取るように見えて、
感情が動かなくなって、ものすごく視点が高くなりました。
しかし、これも、1ヶ月位でいつもの自分に戻りました。w
これはなんなのでしょうか?
この状態には、また戻りたいです!!
769 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/27(月) 22:14:15.17 ID:TNN+H1lu
>>760 そうじゃな。
一度目の体験で自我が離れ易くなったのじゃろう。
死を観ていなかったからじゃろう。
本当は全てが一つと気づいたならば、死も無いと判る筈なのであるがのう。
死はこの肉体だけの作用であるから全てが一つならば、全てのほんの少しの一部である肉体が無くなっても僅かな変化の他は何も変わらないと気づくのじゃ。
それも自我が離れたのじゃろう。
数息観などの修行をしたら良いのじゃ。
そのような体験があれば速やかに行けるじゃろう。
806 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/28(火) 19:50:45.23 ID:sxkC7ICn
>>769
鬼和尚様、お返事をありがとうございます。
まったくの無になって、戻ってきた者です。
> 死を観ていなかったからじゃろう。
> 本当は全てが一つと気づいたならば、死も無いと判る筈なのであるがのう。
> 死はこの肉体だけの作用であるから全てが一つならば、全てのほんの少しの一部である肉体が無くなっても僅かな変化の他は何も変わらないと気づくのじゃ。
たしかに、おっしゃるとおりですよね・・・。
お答えをいただき、あの感覚を静かに思い出してみました。
すると、無我の状態になっているときには、「死ぬ」とか「もし死んだら」とかを、
まったく思いつかない、そんな次元ではなかった、と思いました。
「死ぬ」という概念なんて、存在しない、という感覚です。
でも、そんなのおかしい、という気持ちも少しあったのかもしれません。
我に返ったあとで思ったのは、「あの状態で普通に生きられるのだろうか?」でした。
友人で、出家している人にこの体験を話したら、すぐに通じて、
その人は半年、その無我の状態だったことがある、と言われました。
でも、普通に生きられた、おかしなことなんてまったくしなかった、と言われました。
その人はやはり、ちょっと普通とは違う雰囲気があります。
静かなのに、存在感がある、という感じです。
修行をすれば、元に戻らなくなるのでしょうか?
私が実感したのは、私は私の自我があるから、生きているのが楽しい、
と思っているということです。
無の状態のときは、楽でしたし、幸せでしたが、
なんだかこう、生きる実感がないといいますか、重力がないというか、そんな気がしてしまいます。
だから、死ぬことで、自分が自分でなくなるのが怖いのだと思います。
長くなりましたが、鬼和尚はいかが思われますか?
832 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/28(火) 22:09:36.25 ID:WJJY8fRt
>>806 そうじゃ、修行すれば常にそうなるじゃろう。
それが本来の状態なのじゃ。
それはまだ自我が自分であると言う観念から離れていないからじゃ。
真の導師に付いて学び修行したのではなく、たまたま自我が離れただけであるからのう。
本当に自我を観て離れたのならば、それが自分ではなく、観念であり、自分であると想っていたのは謬見であったと気づいて永遠に離れるのじゃ。
14 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 09:39:13.69 ID:5RDkC5Y0
鬼和尚様
前スレで私の体験を3つお聞きいただき、サマーディと同じだと教えていただいた者です。
自分の体験が何なのかがわかったことで、少し整理ができ、
「あの状態にずっとなれたらいいのだ、あれが本当なのだ」と確認でき、スッキリいたしました。
ところで、今日は4つ目の話をお聞きいただきたいのです。
これももしかしたら、サマーディと同じなのでしょうか?
私は小学校1,2年生くらいのとき、ときどき、不思議な至福を経験しておりました。
私は「ひろ(仮名)」と親兄弟などに呼ばれておりました。
家では自分のことを「ひろがこうしたらね」「ひろも食べる」などと言っており、
頭の中で考えるときも、「ひろは明日早く起きないと」などと考えておりました。
学校から、よく一人であれこれ考えながら帰っておりました。
「ひろは~」「ひろの~」と考えていると、
ときどき「ひろって何だろう・・・?」と不思議になるのです。
15 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 09:39:49.81 ID:5RDkC5Y0
そして、「どうして頭にはどんどん考えが浮かぶんだろう」
「考えは、どこから湧いてくるんだろう」
「ひろというのは、この頭の内側、体の内側のことなのだろうか」
「ひろが見ているこの景色は、いったい、『何が』『何を』見ているのだろう」
「この考えがひろなのだろうか」「この手足は何が動かしているのだろうか」
「ひろって何、ひろって何、ひろって何、ひろ、ひろ、ひろ、ひろ・・・・・・・・・・」
と考えていると、どんどん不思議な、不安な、変な感覚になり、
何回かに一回、成功すると、ふわっ!と意識が「飛ぶ」のです。
飛ぶというのは気絶とかではなく、離陸するという言葉がピッタリです。
そして、離陸に成功すると、なんと、そこは、一面の金色の光輝く世界なのです。
足は家に向かって歩いているのですが、
そこにはひろも世界も景色もなく(見えているのに見ていないような感覚)、
ただただ金色のイメージしかありません。
言葉には表せない幸せで、永遠にその状態でいたいのです!!(うっとり)
しかし、足は自動的に家に帰りますから、母と話をすると、徐々に自分に戻ります。
あまりに幸せなので、毎日トライしていました。
これは鬼和尚のおっしゃる、集中と観察による自我の厭離でしょうか。
鬼和尚がおっしゃるのは、修業によって、この状態を意図的に作るということでしょうか?
こういう話は誰にしてもわかってもらえず、まあわかってもらおうとも思いませんでしたが、
鬼和尚様はすべて解明してくださるので、嬉しくなり、話してみたくなりました!
ただの偶然かつバラバラな体験で終わらず、方向性を見いだせてきたのは、鬼和尚のお陰です。
ありがとうございます。
16 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 09:42:36.34 ID:5RDkC5Y0
さらに鬼和尚にご質問です。
今までお話したお話
1,気づいたら自分の存在も忘れ、完全な無の状態で数時間経っていた
2,すべては同じ物質からできていることがわかり、自他の区別が消えた
3,自分の感情の源泉は自我であるが、実際にそんなものはないとわかった
4,自分というものを見つめていった結果、光輝く至福の世界に飛べた
これらは、私にとっては、すべて別々の、ちょっと不思議な体験だと思っていました。
しかし、すべてはサマーディという同じものだとしたら、どうしてこんなに違うのでしょうか?
ということは、いろいろな人がサマーディを体験しても、人それぞれの体験は違うということなのでしょうか?
とくに1なんて、完全な無のまま1年とか10年とか経っていたら、すごく困るだけなので、特に望まないのですが・・・。
また、5つ目のお話も聞いていただけますでしょうか?w
私は幼少の頃からある病気を持っていて、それが非常な痛みを伴うのです。
その病気のスレを見ると、「痛みが来ると、思わず神様に許しを乞う」と書いてあるくらいの痛みで、
私もひどいときは、涙を流し、うめきながら布団で丸まっています。
しかし、そんなことが20年とか続き、ついにすごい技を会得いたしました。
「痛いのは嫌だ、消えてほしい」と思うからつらいのだ、ということに気づいたのです。
だから、「はい、どうぞ、私はもう負けました。好きなように暴れてください」と完全降伏して、
まな板の鯉として、両手を広げて痛みを迎え入れることにしたのです。
すると、どうでしょう。
なるようにまかせていると、痛みと私が一体化し、痛みは消え、そのうちに私は眠ってしまうのです。(゚∀゚)キタコレ!!
これは、なんでしょうか?きっとこれは、心の苦痛にも当てはまると思うのです!!
よろしくお願いいたします。
25 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 18:24:05.03 ID:+MaBOdqp
>>16
単なる独り言のコメントですが・・
苦痛を受け容れる(降参する)というのは、ある意味正しいでしょうね。
確か白隠禅師も、最後の悟りでそれを得たと思います。
しかし本当に「覚った」時、覚りはそれとも違うものだったのを、知ったそうです。
47 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/01/31(金) 21:33:11.54 ID:yruodCkz
>>14>>15 それも自分を追求して無我になったと言えるじゃろう。
そうじゃ、そのように己を追及してそれが幻想と知るのじゃ。
>>16 それらの体験はそれぞれ忘我であったり、忘我による気づきであったり、自我への気づきであったり、忘我による快なのじゃ。
我を保ったままの気付きもあり、完全に我を忘れたのもあるから記憶によって違うようにも思えるのじゃ。
同じ体験でも言葉が違ったりするのじゃ。
人にはそれぞれ固有の言語体系があるからのう。
それが苦の性質なのじゃ。
痛み箔ではなく、痛みを厭う心の働きが苦になるのじゃ。
苦は心の中にしかない故に、放棄すれば消えるのじゃ。
56 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 23:15:39.02 ID:5RDkC5Y0
>>47
鬼和尚様、ありがとうございます!!
> 我を保ったままの気付きもあり、完全に我を忘れたのもあるから記憶によって違うようにも思えるのじゃ。
つまり、同じものを感じたのだが、感じ方が違っただけだ、ということでしょうか?
> 同じ体験でも言葉が違ったりするのじゃ。
> 人にはそれぞれ固有の言語体系があるからのう。
たしかに、人それぞれの言語体系は大なり小なり違いはあると思います。
ですから、時代や国が違えば違うほど、説明は変わってくるように思います。
しかし、今回私が
「すべてはサマーディという同じものだとしたら、どうしてこんなに違うのでしょうか?」
「人それぞれの体験は違うということなのでしょうか?」
とお聞きしたことについては、
「同じものを違う角度から感じた」「自我の消え方、残り方が違っていた」
ということのほうが近いのかな、と感じたのですが、いかがでしょうか?
> それが苦の性質なのじゃ。
> 痛み箔ではなく、痛みを厭う心の働きが苦になるのじゃ。
> 苦は心の中にしかない故に、放棄すれば消えるのじゃ。
以前、鬼和尚が、
「本当に病気による痛みなら、遠離しても?(ここは曖昧です)消えないのじゃ」
のようなことをおっしゃっていたように思います。
私の痛みは心ではなく、病気により物理的に痛いと思いますが、消えました。
仮に末期がんの痛みや腕をもがれた痛みなどであっても、心を放棄すれば消えると思われますか?
私は自分の経験から、意志や集中力によって完全に降伏すれば消せると感じます。
57 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 23:25:31.92 ID:5RDkC5Y0
>>25
独り言ということですが・・・
苦痛を受け入れること≠悟りということでしょうかね・・・?
もちろんそういう人の境地が分かるはずもないのですが、
苦痛を受け入れた結果、悟りに至ったのかな、と現時点での私は感じました。
59 :おさかなくわえた名無しさん:2014/01/31(金) 23:37:10.40 ID:yszQSxW/
鬼和尚、>>57は悟りを開いたと思いますか?
85 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/02/01(土) 21:02:43.03 ID:t54GH5Wu
>>56 同じでも観ているものが違ったり、記憶が違ったりしているのじゃ。
おぬしが修行によって常にその状態には入れるならば、同じ境地と判るのじゃ。
しかし偶然に入るだけであるから見るものや感じ方が度々違うのじゃ。
例えば海底に潜った者が素人ならば右を見て海藻があり、別の時に同じ所に潜って左を見たらさんごがあったから別の場所と思うようなものじゃ。
玄人ならばもぐった所で全て見回し同じ所と気づくのじゃ。
観察による厭離によって消える痛みは本当は痛みではなく、観念であったからなのじゃ。
本当に肉体による痛みならば観察では消えないのじゃ。
痛みを苦で無くする事は出来るがのう。
>>59 開いていないのじゃ。
89 :おさかなくわえた名無しさん:2014/02/01(土) 21:51:52.56 ID:ojZaOgCG
>>57
85 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2014/02/01(土) 21:02:43.03 ID:t54GH5Wu
>>59 開いていないのじゃ。
・・・・だそうです。
残念でしたね・・・。
91 :おさかなくわえた名無しさん:2014/02/02(日) 06:51:00.07 ID:hrPr0Eu2
>>85
ありがとうございます!
毎回違う体験のように思えることについて、ご説明で非常によくわかりました。
痛みについては、私が消えたと感じるならば、観念であり、
肉体的な痛みではないということですね。
しかし、おそらく観念ではなく病気によるものなので、
消えたのではなく、痛いけれども受け入れることで苦ではなくなり、
それを痛みが消えたと勘違いしている可能性もあるでしょうか?
今度同じ状況になったときに、観察してみます。
92 :おさかなくわえた名無しさん:2014/02/02(日) 07:01:35.83 ID:hrPr0Eu2
>>89
間違いなく悟りは開いておりません。
私は何度か無我を体験した、普通の人です。
鬼和尚の書いたものを拝読し、
無我がいつもの状態になった人を悟っているというのでは、と理解しております。
そしてさらに、無我の認識もなくなることが、これ以上ない境地なのかな、と。
たとえばアメリカに行ったことがない人がいて、私は数回アメリカ旅行に行った人で、
悟った人というのはアメリカ在住の人、という感じに捉えております。
これでいえば、国籍を取得してアメリカ人になるのが最終的な境地なのでしょうか?w
鬼和尚様、いかがでしょう?
121 :おさかなくわえた名無しさん:2014/02/02(日) 14:46:38.08 ID:QIgrsB6A
小さい悟りというのはどういう状態ですか
大きい悟りを得るともし生まれ変わっても2度と我が発生しないですか
思考に干渉して強制的に観照が起こる無理やり解脱マシーンは発明されませんか
絵的に美しくないですか
140 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2014/02/02(日) 21:48:50.21 ID:FzIBEeA9
>>91 そうかもしれん。
良く観察してみるのじゃ。
>>92 それでも良いのじゃ。
忘我でも真実の世界を垣間見れるのじゃ。
やがては誰もが彼岸に来るのじゃ。
>>121 小さい悟りとはサマーディや無我になった状態なのじゃ。
心の悟りを得れば二度と生まれないと知るじゃろう。
いずれできるかも知れん。
194 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 21:05:51 ID:XPi6kEF2
武道などの練習の中で禅やなんかを実践できるもんですか?
できるとしたら、そのための心がけや方法論って、何かありますか?
197 :鬼和尚:2007/11/20(火) 21:39:15 ID:Y1TLf2TR
>>194 己の所作を、出来る限り客観的に観るのじゃ。
一つ一つの技を行う時、三分の意識は技を行い、七分の意識はそれを観るようにする。
最初は難しいが、慣れれば出来るようになる。
そのようにすれば、怒りも、焦りもなくなり、不動心が養えるじゃろう。
常に己を客観的に観られる者は、どの分野でも一流の者になれる筈じゃ。
199 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 21:44:45 ID:IGAg2fQs
鬼和尚は武道されるのですか?
228 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 23:10:24 ID:DdXIFt6r
>>197
その方法の先に、極度に作為がなく技を行うような境地がありそうですか?
236 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 23:29:27 ID:DdXIFt6r
>>197
もう一つ。
「相手」というファクターを、どう扱えば良いでしょうか?
思うようにならない相手を前に、意識を自分への観察へ向ける、何かコツをおもいつかれませんか?
285 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 19:52:37 ID:HPavdltP
>鬼和尚さん
194=236です。
お礼を忘れていました。
ご回答ありがとうございました。
ちょっと考えてみたのですが、こんな事でよいのでしょうか。
・稽古に没頭する。
・「思い通りにならない」とか「痛い」とか「しんどい」とか「うまくいった」とか思ったら、思っている自分を観察する。
298 :鬼和尚:2007/11/21(水) 21:14:35 ID:LGEzTp3x
>>199 わしは若い頃に学校で柔道をやっておった。
>>228>>236>>285 一旦、体が技を覚えたら可能な限り力を抜き、最低限の力でその技をやってみるのじゃ。
体をこのように動かそうとか、こう動かそうと言う意識も無くしていき、ただ見つめる意識に重点を置いていく。
己が技をかけるという意識さえも無くし、体の動きに任せるのじゃ。その時、意識は体の外にあって見ているような感じじゃ。
無意識の時にこそ最高の技が出る。
相手があれば相手の意識と同調し、相手と自分を一つのものとして観るのじゃ。
相手と同調すれば次の動きが手にとるように判る。
戦うと言うより、意識を合わせるのじゃ。
そこまで行けば達人じゃな。
頑張るのじゃ。
299 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 21:21:26 ID:LTz+VH/T
昔の戦国大名、武士、侍は座禅やりますね
中には熱心な仏教徒もいました
現代でも武道家、格闘家も座禅やりますね
仏教って不殺で暴力を一切否定しますよね
無知な自分にはそこが理解不能です。
302 :鬼和尚:2007/11/21(水) 21:48:23 ID:LGEzTp3x
>>299 それは日本独特の道という概念じゃな。
一つの道を極める事で悟りに至れるという。
ある意味、野狐禅であり、邪道ではあろう。
しかし、どの分野でも極度の集中力が、不可能を可能にする現象があり、そこに常に悟りの可能性がある。
道は常に特殊な個人による特殊な修行と言えよう。
普通の者は理解出来なくとも無理はない。
そして無理に理解する事も無いのじゃ。
304 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 21:59:21 ID:LTz+VH/T
>>302
なるほど、ありがとうございます。
308 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 23:16:41 ID:noYBSduB
>>298
ありがとうございます!
実践します。
328 :里中美子 ◆UIiQ5N7wO6 :2007/11/22(木) 01:13:12 ID:zGr1tyDk
究極の合気道とは殺しに来た敵と友達になることだって尊敬する先輩が言っとった。
353 :鬼和尚:2007/11/22(木) 21:10:03 ID:/MUdfXwS
>>304 どういたしまして、又おいでなさい。
>>308 どういたしまして、おぬしがおりんぴっくに出るのを楽しみにしよう。
354 :鬼和尚:2007/11/22(木) 21:21:56 ID:/MUdfXwS
>>328 いい事じゃ。わしもまだまだじゃな。と、小悟した。
武道などの練習の中で禅やなんかを実践できるもんですか?
できるとしたら、そのための心がけや方法論って、何かありますか?
197 :鬼和尚:2007/11/20(火) 21:39:15 ID:Y1TLf2TR
>>194 己の所作を、出来る限り客観的に観るのじゃ。
一つ一つの技を行う時、三分の意識は技を行い、七分の意識はそれを観るようにする。
最初は難しいが、慣れれば出来るようになる。
そのようにすれば、怒りも、焦りもなくなり、不動心が養えるじゃろう。
常に己を客観的に観られる者は、どの分野でも一流の者になれる筈じゃ。
199 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 21:44:45 ID:IGAg2fQs
鬼和尚は武道されるのですか?
228 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 23:10:24 ID:DdXIFt6r
>>197
その方法の先に、極度に作為がなく技を行うような境地がありそうですか?
236 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 23:29:27 ID:DdXIFt6r
>>197
もう一つ。
「相手」というファクターを、どう扱えば良いでしょうか?
思うようにならない相手を前に、意識を自分への観察へ向ける、何かコツをおもいつかれませんか?
285 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 19:52:37 ID:HPavdltP
>鬼和尚さん
194=236です。
お礼を忘れていました。
ご回答ありがとうございました。
ちょっと考えてみたのですが、こんな事でよいのでしょうか。
・稽古に没頭する。
・「思い通りにならない」とか「痛い」とか「しんどい」とか「うまくいった」とか思ったら、思っている自分を観察する。
298 :鬼和尚:2007/11/21(水) 21:14:35 ID:LGEzTp3x
>>199 わしは若い頃に学校で柔道をやっておった。
>>228>>236>>285 一旦、体が技を覚えたら可能な限り力を抜き、最低限の力でその技をやってみるのじゃ。
体をこのように動かそうとか、こう動かそうと言う意識も無くしていき、ただ見つめる意識に重点を置いていく。
己が技をかけるという意識さえも無くし、体の動きに任せるのじゃ。その時、意識は体の外にあって見ているような感じじゃ。
無意識の時にこそ最高の技が出る。
相手があれば相手の意識と同調し、相手と自分を一つのものとして観るのじゃ。
相手と同調すれば次の動きが手にとるように判る。
戦うと言うより、意識を合わせるのじゃ。
そこまで行けば達人じゃな。
頑張るのじゃ。
299 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 21:21:26 ID:LTz+VH/T
昔の戦国大名、武士、侍は座禅やりますね
中には熱心な仏教徒もいました
現代でも武道家、格闘家も座禅やりますね
仏教って不殺で暴力を一切否定しますよね
無知な自分にはそこが理解不能です。
302 :鬼和尚:2007/11/21(水) 21:48:23 ID:LGEzTp3x
>>299 それは日本独特の道という概念じゃな。
一つの道を極める事で悟りに至れるという。
ある意味、野狐禅であり、邪道ではあろう。
しかし、どの分野でも極度の集中力が、不可能を可能にする現象があり、そこに常に悟りの可能性がある。
道は常に特殊な個人による特殊な修行と言えよう。
普通の者は理解出来なくとも無理はない。
そして無理に理解する事も無いのじゃ。
304 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 21:59:21 ID:LTz+VH/T
>>302
なるほど、ありがとうございます。
308 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 23:16:41 ID:noYBSduB
>>298
ありがとうございます!
実践します。
328 :里中美子 ◆UIiQ5N7wO6 :2007/11/22(木) 01:13:12 ID:zGr1tyDk
究極の合気道とは殺しに来た敵と友達になることだって尊敬する先輩が言っとった。
353 :鬼和尚:2007/11/22(木) 21:10:03 ID:/MUdfXwS
>>304 どういたしまして、又おいでなさい。
>>308 どういたしまして、おぬしがおりんぴっくに出るのを楽しみにしよう。
354 :鬼和尚:2007/11/22(木) 21:21:56 ID:/MUdfXwS
>>328 いい事じゃ。わしもまだまだじゃな。と、小悟した。
532 :神も仏も名無しさん:2007/11/06(火) 22:13:08 ID:ZQnmqo9n
鬼和尚さま。舎利子さま。
たまーに、ふと、悟ったような状態になることがあります。
・思考が吹っ飛んだような
・ああ、今までのは全部妄想だったんだ。
・今まで普段、「まみれ」ていたなぁ。
・心のおしゃべり、偏見、決め付け、憶測、思い込み…だったんだ。
・それらが吹っ飛んで、台風の後の、風でゴミが吹っ飛んで綺麗になった町みたいな。
・物、物質がなんだかクリアに見える。くっきり見える。近く感じる。
・他人も自分も、物なんだなぁ。物質なんだなぁ。脳の電気信号、動物なんだなぁ。
・今まではストーリーの中に生きていたなぁ。物語を自分で勝手に作って主演していた。
・大きな喜びはないけど、苦しみもない。ほんのりハッピーぐらい。
・強烈に「今」を感じる。
・淡々としている。自分も他人も世界も。
・普段が昼の町の喧騒なら、これは夜静かで澄み切った空気の場所で一人。
と言う状態なのですが、これは悟りに近いでしょうか?
と言っても、この状態はすぐになくなってしまいます。
この状態になるのは意識的ではなく偶然です。意識的には出来ず、気がつくと「あ、あの状態だ」となります。
この状態を意識的に入れるように成るには?
そして持続させることは出来るのでしょうか?
533 :偽和尚 ◆qH7QdQmFhM :2007/11/06(火) 23:58:21 ID:mU1w5aXD
偽者だけど勝手に書こう。
適当に書いてるだけなので鵜呑みにしないこと。
>>532
それって眠るのと同じで意識的に出来るのは準備だけじゃないかな。
眠るときに意識的に出来るのは布団に入って横になることだけ。
しかしそうやったからといって眠れる保証はない。
眠るのは意識が低下した状態だから意識的に眠るのは不可能。
当然眠ろう眠ろうと頑張ると眠れない。全ての努力をやめた後でようやっと眠れる。
543 :鬼和尚:2007/11/07(水) 21:07:11 ID:+3qb84uY
>>532 それは無我の境地、無我三昧とでも言うべき状態じゃ。
深い瞑想の中で、一時的に自我の働きから免れた故に、平等性智が発現したのじゃ。
その状態は自我を観照し、厭離すれば、常に持続するようになる。
更に観察力を磨き、自我が止まり、その状態に入る瞬間を捉える事が出来れば、観照が起こるじゃろう。
重要なのはその体験ではなく、無我になれる、心を明け渡した心境なのじゃ。
意識して何かをしようとすれば、自我が起こる。
瞑想をしようとする意識すらなくし、己の全てを明け渡した瞬間、自我は止まり、観照が始るのじゃ。
546 :舎利子:2007/11/07(水) 23:57:47 ID:/qKq5uNL
>>532
私は皆さんの様に専門的なことはわかりません。
ただ、悟り とは、追い求めるものではなく、後からついてくるものだと思います。
ノ
('A`) 無智亦無得
( (ゝ
<ωヽ
547 :532:2007/11/08(木) 00:28:40 ID:SMTWJAkw
>>533,543,546
ありがとうございます。
あまりこだわらないほうがいいみたいですね。
こだわると逆効果っぽいですね。
555 :鬼和尚:2007/11/08(木) 21:23:50 ID:iAaFqVj6
>>547 そうじゃ。頑張らないように頑張るが良い。
560 :神も仏も名無しさん:2007/11/08(木) 22:41:58 ID:KRitWuhX
最近、色即是空と空即是色(こっちが先だった)
が、雷に打たれたかの如く自分の中で突然意味をもって、
表面的な意味じゃなくて感覚で理解した気がする。
それまで意味すら知らなかったのに・・・。
これは悟りなのか?
また、本質からは微かにズレていたのだが、これは何かまだ邪だったという事か?
578 :鬼和尚:2007/11/09(金) 21:53:45 ID:KuPqO37a
>>560 おぬしも束の間、無我を垣間見たようじゃな。
自我を観照し、厭離すれば常にその状態に止まる事が出来る。
更に認識をも厭離し、転換した時に、叡智を伴なう真の悟りが得られるじゃろう。
604 :神も仏も名無しさん:2007/11/10(土) 18:09:43 ID:tNyphSbW
>>578
和尚ありがとう。
無我の境地、実に気持ちの良いものだった。でもこれで、無我に対する我執が生じた。
我執に対する我執が生まれてしまったな。再びあの境地に立つのは難しそうだ・・・。
617 :鬼和尚:2007/11/10(土) 21:36:45 ID:+QUbLoJM
>>604 どういたしまして、又おいでなさい。
鬼和尚さま。舎利子さま。
たまーに、ふと、悟ったような状態になることがあります。
・思考が吹っ飛んだような
・ああ、今までのは全部妄想だったんだ。
・今まで普段、「まみれ」ていたなぁ。
・心のおしゃべり、偏見、決め付け、憶測、思い込み…だったんだ。
・それらが吹っ飛んで、台風の後の、風でゴミが吹っ飛んで綺麗になった町みたいな。
・物、物質がなんだかクリアに見える。くっきり見える。近く感じる。
・他人も自分も、物なんだなぁ。物質なんだなぁ。脳の電気信号、動物なんだなぁ。
・今まではストーリーの中に生きていたなぁ。物語を自分で勝手に作って主演していた。
・大きな喜びはないけど、苦しみもない。ほんのりハッピーぐらい。
・強烈に「今」を感じる。
・淡々としている。自分も他人も世界も。
・普段が昼の町の喧騒なら、これは夜静かで澄み切った空気の場所で一人。
と言う状態なのですが、これは悟りに近いでしょうか?
と言っても、この状態はすぐになくなってしまいます。
この状態になるのは意識的ではなく偶然です。意識的には出来ず、気がつくと「あ、あの状態だ」となります。
この状態を意識的に入れるように成るには?
そして持続させることは出来るのでしょうか?
533 :偽和尚 ◆qH7QdQmFhM :2007/11/06(火) 23:58:21 ID:mU1w5aXD
偽者だけど勝手に書こう。
適当に書いてるだけなので鵜呑みにしないこと。
>>532
それって眠るのと同じで意識的に出来るのは準備だけじゃないかな。
眠るときに意識的に出来るのは布団に入って横になることだけ。
しかしそうやったからといって眠れる保証はない。
眠るのは意識が低下した状態だから意識的に眠るのは不可能。
当然眠ろう眠ろうと頑張ると眠れない。全ての努力をやめた後でようやっと眠れる。
543 :鬼和尚:2007/11/07(水) 21:07:11 ID:+3qb84uY
>>532 それは無我の境地、無我三昧とでも言うべき状態じゃ。
深い瞑想の中で、一時的に自我の働きから免れた故に、平等性智が発現したのじゃ。
その状態は自我を観照し、厭離すれば、常に持続するようになる。
更に観察力を磨き、自我が止まり、その状態に入る瞬間を捉える事が出来れば、観照が起こるじゃろう。
重要なのはその体験ではなく、無我になれる、心を明け渡した心境なのじゃ。
意識して何かをしようとすれば、自我が起こる。
瞑想をしようとする意識すらなくし、己の全てを明け渡した瞬間、自我は止まり、観照が始るのじゃ。
546 :舎利子:2007/11/07(水) 23:57:47 ID:/qKq5uNL
>>532
私は皆さんの様に専門的なことはわかりません。
ただ、悟り とは、追い求めるものではなく、後からついてくるものだと思います。
ノ
('A`) 無智亦無得
( (ゝ
<ωヽ
547 :532:2007/11/08(木) 00:28:40 ID:SMTWJAkw
>>533,543,546
ありがとうございます。
あまりこだわらないほうがいいみたいですね。
こだわると逆効果っぽいですね。
555 :鬼和尚:2007/11/08(木) 21:23:50 ID:iAaFqVj6
>>547 そうじゃ。頑張らないように頑張るが良い。
560 :神も仏も名無しさん:2007/11/08(木) 22:41:58 ID:KRitWuhX
最近、色即是空と空即是色(こっちが先だった)
が、雷に打たれたかの如く自分の中で突然意味をもって、
表面的な意味じゃなくて感覚で理解した気がする。
それまで意味すら知らなかったのに・・・。
これは悟りなのか?
また、本質からは微かにズレていたのだが、これは何かまだ邪だったという事か?
578 :鬼和尚:2007/11/09(金) 21:53:45 ID:KuPqO37a
>>560 おぬしも束の間、無我を垣間見たようじゃな。
自我を観照し、厭離すれば常にその状態に止まる事が出来る。
更に認識をも厭離し、転換した時に、叡智を伴なう真の悟りが得られるじゃろう。
604 :神も仏も名無しさん:2007/11/10(土) 18:09:43 ID:tNyphSbW
>>578
和尚ありがとう。
無我の境地、実に気持ちの良いものだった。でもこれで、無我に対する我執が生じた。
我執に対する我執が生まれてしまったな。再びあの境地に立つのは難しそうだ・・・。
617 :鬼和尚:2007/11/10(土) 21:36:45 ID:+QUbLoJM
>>604 どういたしまして、又おいでなさい。
563 :鬼和尚:2007/10/07(日) 21:31:55 ID:hgjn3c8w
いろいろあって説法をしていなかったのう。久しぶりに説法じゃ。
わしはまだ若い頃から死というものを恐れ、真実を求めて修行してきた。
真実を求めて、多くの経を読み、己の心を探った。
真実ではないと思えば、伝統的なものとされる教えも捨て去り、真実であると判れば新しい教えも受け入れた。
真実だけを求めていた。
真実だけを。
真実だけが、人を死から逃れさせ、不死の境地に導く事が出来ると信じておったからじゃ。
幸いにしてわしは悟りを得て、真実を知る事が出来た。
そして、真実を追求していけば、必ず大いなる果報であるニルヴァーナに行くことが出来ると、自らの体験で知ったのじゃ。
例えば木の研究をして居るものが、図鑑や書物などで木についての知識を集め、外に行って本物の木を見たら、知識にあるものと違っていたとしよう。
その者が「これは木ではない、私の知識にある木とは違うから、これはニセモノだ」というなら、その者は無駄に知識を集め、全ての知識は無意味だったと言える。
真実は知識の中にあるとは限らないものじゃ。
真実を告げる目覚めた者に会いながら、己の知識に囚われて見ようとしないのなら、全ての知識とそれを得るための努力は、却って目隠しの役をしているに過ぎないのじゃ。
そのような者達は、目の前に在るチャンスに気付かず、知識を役立たせず、悩んだり、苦しんだりしながら生を終えるじゃろう。
もし、人が多くの知識を得ても、相変わらず悩んでいたり、苦しんでいたりするならば、それは未だ真実に至っていないということなのじゃ。
あくまでも真実を追求し、真実を求めて、目覚めた者の声を聞く者は、やがて悟りを得て、真実を知る事になるじゃろう。
そこに至ればもはや悩みも、苦しみも無くなる。
一切が永遠の楽しみと喜びの表れであると知るじゃろう。
そして、全てであり、平等である永遠の意識が、真の己であったと判る。
真実をを追求し続ける者には、間違い無く大いなる果報があるのじゃ。
真実をを追求し続ける者には、勝利が約束されている。
真実をを追求し続ける者には、永遠の喜びが待っている。
みんなそのような境地に至るまで、真実を追求し続けるのじゃ。
564 :鬼和尚:2007/10/07(日) 21:33:56 ID:hgjn3c8w
真実を追求し続ける者には、永遠の喜びが待っている。
を、は一回にしといて欲しいのじゃ。
565 :舎利子:2007/10/07(日) 22:06:24 ID:yG3sZx4L
ノ
('A`) 八正道
( (ゝ GOOGLE IT!
<ωヽ
603 :鬼和尚:2007/10/08(月) 21:43:54 ID:tZU+P5E9
>>565 うむ、八正道について少し話して置こう。
八正道はお釈迦様が最初に説かれた法であると言われておる。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
の八つじゃ。
中でも八正道の要は、最初の正見にあるといえよう。
正見をする為に、残り七つの道はある。
真実を追求することで正見が得られ、正思惟が出来、正語を語り、正業を行い、正命によって生活し、正精進によって正念を得て、正定によって悟りを得るのじゃ。
正しい見解が無ければ正しい思惟は無く、正しい思惟が出来なければ正しい言葉を語る事は出来ない。
そして、正しい生活も、正しい修行なども出来ず、悟りを得る事は適わぬものと言えるのじゃ。
正しい言葉を語ることが出来ない者は、正しい見解の無い者なのじゃ。
そのような者は構わず、自らが正しい見解を持って正しい言葉を使おうと、心がけるが良かろう。
いずれ正しい見解を持って居る者は、悟りを得られる事に決定しておるのじゃから。
604 :狸和尚:2007/10/08(月) 21:53:07 ID:0TWF3Z+o
>>603
では、和尚のいう正しい見解とは何であるかのう
646 :鬼和尚:2007/10/09(火) 22:09:34 ID:6nqIcWcU
なんだか和尚が増えたのう。
>>604 わしにとっての正しい見解とは、もはや何の見解も無いということじゃ。見解を抱く者は無く、見解の対象も無く、見解そのものも無い。
しかし、おぬしらにとっては諸行無常、諸法無我、などの修行の為の見解が正しい見解と言えよう。
698 :瓢箪鮎(本日未熟者賞味期限切れ):2007/10/10(水) 09:33:12 ID:eS/yd/8+
鬼和尚さん
>>646
>わしにとっての正しい見解とは、もはや何の見解も無いということじゃ。見解を抱く者は無く、見解の対象も無く、見解そのものも無い。
これだけでは虚無になってしまうと思いますし、もう一言足りないと思うのですが。如何でしょうか?
色即是空だけでは一面しか観てないように・・・・。
707 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 16:01:50 ID:szrXpbz2
舎利子さん、鬼和尚さん、お聞きしてもいいですか?
人はいつから「人」になって、「神」を(概念、信仰として)持ち、「悟り」があるようになったのですか?
またそれは何故なんでしょうか。
宇宙創造の原点から人間が在ったわけでもないし、
生命誕生の頃には今ある他の動植物との違いも無かっただろうと思います。
でもわたし達は恐らくここ数千年の間にできた「神」や「悟り」を最終的な答えであるかのように話し合います。
2000年程前の人々もそうだったでしょうし、そのまた2000年前の人も、更にその前もそうなのでしょう。
数千年後の人々が、今のわたし達を見て「当時はこう考えられていた」とか言うのかなぁと思うと、
今ある聖典や仏典の言葉に囚われ、あまりに狭い視野で物事を捕らえているような気がして・・・
困惑しています。
732 :鬼和尚:2007/10/10(水) 21:26:40 ID:3P5vI4Be
>>698それはわしの見解じゃ。
教義とは違う物じゃ。
見解などは無くて良いのじゃ、ただ無限の意識があるのみなのじゃ。
>>707 はっきり言うが、人や世界を作った神など居らん。
人の観念としての神は妄想じゃ。
ただ永遠にして無限の意識だけが在る。
人が悟りを得るとは、そこから来た者が、そこに帰るという事じゃ。
例えば浜辺の波が、海から来て海に帰るように、或いは水面に生じた泡が、一時だけ存在して水に帰っていくように、全ては無限の意識から生じてそこに帰っていく。
しかし、実際には帰る者も帰る事も無い。
始めから全ては一体であったのじゃ。
わしらの誤った認識が、永遠の意識への感応を妨げておっただけなのじゃ。
少し難しかったかのう。
938 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 20:07:44 ID:7XmqLrNq
鬼和尚さん
修行の道は険しく、途中でめげそうになる事もあるのかなぁと思うんですが
そういう事はありましたか?またあったのなら思い直したきっかけってどんなことだったんでしょうか。
ちょっと聞いてみたくて・・・
940 :鬼和尚:2007/10/15(月) 21:19:53 ID:HXvX3Ozf
>>938 わしも若い時には修行が苦しくて、やめようと思った時もあった。
しかし、それを思い止まらせたのは、やはり死というものがあったからじゃ。
修行しようとしまいと、人間は死んでいく。
何も判らずに゛生き、何も判らずに死んでいくのが、わしにま我慢できなかったのじゃ。
人間は誰でも100%死んでいくしかないものじゃ。
唯一、死を逃れられるのは、悟りを得る他は無いと、そのように思ったから修行を続ける事が出来たのじゃ。
死を超える道は確実にある。
それは自らの心を観ることによって到達出来る。
みんなも頑張って修行するのじゃ。
いろいろあって説法をしていなかったのう。久しぶりに説法じゃ。
わしはまだ若い頃から死というものを恐れ、真実を求めて修行してきた。
真実を求めて、多くの経を読み、己の心を探った。
真実ではないと思えば、伝統的なものとされる教えも捨て去り、真実であると判れば新しい教えも受け入れた。
真実だけを求めていた。
真実だけを。
真実だけが、人を死から逃れさせ、不死の境地に導く事が出来ると信じておったからじゃ。
幸いにしてわしは悟りを得て、真実を知る事が出来た。
そして、真実を追求していけば、必ず大いなる果報であるニルヴァーナに行くことが出来ると、自らの体験で知ったのじゃ。
例えば木の研究をして居るものが、図鑑や書物などで木についての知識を集め、外に行って本物の木を見たら、知識にあるものと違っていたとしよう。
その者が「これは木ではない、私の知識にある木とは違うから、これはニセモノだ」というなら、その者は無駄に知識を集め、全ての知識は無意味だったと言える。
真実は知識の中にあるとは限らないものじゃ。
真実を告げる目覚めた者に会いながら、己の知識に囚われて見ようとしないのなら、全ての知識とそれを得るための努力は、却って目隠しの役をしているに過ぎないのじゃ。
そのような者達は、目の前に在るチャンスに気付かず、知識を役立たせず、悩んだり、苦しんだりしながら生を終えるじゃろう。
もし、人が多くの知識を得ても、相変わらず悩んでいたり、苦しんでいたりするならば、それは未だ真実に至っていないということなのじゃ。
あくまでも真実を追求し、真実を求めて、目覚めた者の声を聞く者は、やがて悟りを得て、真実を知る事になるじゃろう。
そこに至ればもはや悩みも、苦しみも無くなる。
一切が永遠の楽しみと喜びの表れであると知るじゃろう。
そして、全てであり、平等である永遠の意識が、真の己であったと判る。
真実をを追求し続ける者には、間違い無く大いなる果報があるのじゃ。
真実をを追求し続ける者には、勝利が約束されている。
真実をを追求し続ける者には、永遠の喜びが待っている。
みんなそのような境地に至るまで、真実を追求し続けるのじゃ。
564 :鬼和尚:2007/10/07(日) 21:33:56 ID:hgjn3c8w
真実を追求し続ける者には、永遠の喜びが待っている。
を、は一回にしといて欲しいのじゃ。
565 :舎利子:2007/10/07(日) 22:06:24 ID:yG3sZx4L
ノ
('A`) 八正道
( (ゝ GOOGLE IT!
<ωヽ
603 :鬼和尚:2007/10/08(月) 21:43:54 ID:tZU+P5E9
>>565 うむ、八正道について少し話して置こう。
八正道はお釈迦様が最初に説かれた法であると言われておる。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
の八つじゃ。
中でも八正道の要は、最初の正見にあるといえよう。
正見をする為に、残り七つの道はある。
真実を追求することで正見が得られ、正思惟が出来、正語を語り、正業を行い、正命によって生活し、正精進によって正念を得て、正定によって悟りを得るのじゃ。
正しい見解が無ければ正しい思惟は無く、正しい思惟が出来なければ正しい言葉を語る事は出来ない。
そして、正しい生活も、正しい修行なども出来ず、悟りを得る事は適わぬものと言えるのじゃ。
正しい言葉を語ることが出来ない者は、正しい見解の無い者なのじゃ。
そのような者は構わず、自らが正しい見解を持って正しい言葉を使おうと、心がけるが良かろう。
いずれ正しい見解を持って居る者は、悟りを得られる事に決定しておるのじゃから。
604 :狸和尚:2007/10/08(月) 21:53:07 ID:0TWF3Z+o
>>603
では、和尚のいう正しい見解とは何であるかのう
646 :鬼和尚:2007/10/09(火) 22:09:34 ID:6nqIcWcU
なんだか和尚が増えたのう。
>>604 わしにとっての正しい見解とは、もはや何の見解も無いということじゃ。見解を抱く者は無く、見解の対象も無く、見解そのものも無い。
しかし、おぬしらにとっては諸行無常、諸法無我、などの修行の為の見解が正しい見解と言えよう。
698 :瓢箪鮎(本日未熟者賞味期限切れ):2007/10/10(水) 09:33:12 ID:eS/yd/8+
鬼和尚さん
>>646
>わしにとっての正しい見解とは、もはや何の見解も無いということじゃ。見解を抱く者は無く、見解の対象も無く、見解そのものも無い。
これだけでは虚無になってしまうと思いますし、もう一言足りないと思うのですが。如何でしょうか?
色即是空だけでは一面しか観てないように・・・・。
707 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 16:01:50 ID:szrXpbz2
舎利子さん、鬼和尚さん、お聞きしてもいいですか?
人はいつから「人」になって、「神」を(概念、信仰として)持ち、「悟り」があるようになったのですか?
またそれは何故なんでしょうか。
宇宙創造の原点から人間が在ったわけでもないし、
生命誕生の頃には今ある他の動植物との違いも無かっただろうと思います。
でもわたし達は恐らくここ数千年の間にできた「神」や「悟り」を最終的な答えであるかのように話し合います。
2000年程前の人々もそうだったでしょうし、そのまた2000年前の人も、更にその前もそうなのでしょう。
数千年後の人々が、今のわたし達を見て「当時はこう考えられていた」とか言うのかなぁと思うと、
今ある聖典や仏典の言葉に囚われ、あまりに狭い視野で物事を捕らえているような気がして・・・
困惑しています。
732 :鬼和尚:2007/10/10(水) 21:26:40 ID:3P5vI4Be
>>698それはわしの見解じゃ。
教義とは違う物じゃ。
見解などは無くて良いのじゃ、ただ無限の意識があるのみなのじゃ。
>>707 はっきり言うが、人や世界を作った神など居らん。
人の観念としての神は妄想じゃ。
ただ永遠にして無限の意識だけが在る。
人が悟りを得るとは、そこから来た者が、そこに帰るという事じゃ。
例えば浜辺の波が、海から来て海に帰るように、或いは水面に生じた泡が、一時だけ存在して水に帰っていくように、全ては無限の意識から生じてそこに帰っていく。
しかし、実際には帰る者も帰る事も無い。
始めから全ては一体であったのじゃ。
わしらの誤った認識が、永遠の意識への感応を妨げておっただけなのじゃ。
少し難しかったかのう。
938 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 20:07:44 ID:7XmqLrNq
鬼和尚さん
修行の道は険しく、途中でめげそうになる事もあるのかなぁと思うんですが
そういう事はありましたか?またあったのなら思い直したきっかけってどんなことだったんでしょうか。
ちょっと聞いてみたくて・・・
940 :鬼和尚:2007/10/15(月) 21:19:53 ID:HXvX3Ozf
>>938 わしも若い時には修行が苦しくて、やめようと思った時もあった。
しかし、それを思い止まらせたのは、やはり死というものがあったからじゃ。
修行しようとしまいと、人間は死んでいく。
何も判らずに゛生き、何も判らずに死んでいくのが、わしにま我慢できなかったのじゃ。
人間は誰でも100%死んでいくしかないものじゃ。
唯一、死を逃れられるのは、悟りを得る他は無いと、そのように思ったから修行を続ける事が出来たのじゃ。
死を超える道は確実にある。
それは自らの心を観ることによって到達出来る。
みんなも頑張って修行するのじゃ。