サービス業をナナメから見るといろいろわかることがある。
最初に当たり前のことを書いてしまうと『サービス=お金』という概念だ。
例えば
舞台や演劇などにお金を支払った場合、その対価として『感動』というサービスを受けることができる。
決して綺麗な表現ではないけど『感動をお金で買う』ということになる。
お金を出す側は当然の権利として実はそのことを主張していかなければならない。
提供者側はその期待に応える責任がお金をもらった時点で発生する。
…まぁ
こんな風に描くとあまりにも露骨すぎて綺麗には聞こえない。
だが、たまにこれとは逆のことがあるのでそこら辺を描くと多少納得してもらえるかもしれない。
『お金を払ってるのにイヤな思いをする』←コレ
提供者側の管理不足や不注意でお金をもらっているのにも関わらず、相手方に迷惑をかける場合がある。
これは具体的にどんなことかというと
例えば、先日『餃子の王将』で昼メシを食べていたら天津飯に髪の毛が入っていた。
店員さんに言ったら新しいものとすぐに交換してくれた。
取り替える際に作った人が一緒に謝りに来た。
全然気にしてなかったんだけどめちゃくちゃ謝られた。
きっと人によっては『激怒』する。
仮にここで怒るやつがいてもその客は基本悪くない。
なぜならば
お金を払っているのにイヤな気持ちにさせられたからだ。
つまりこれがサービスの基本概念。
提供者側は常に『どうすればお金を出す人が喜んでもらえるか』を考える。
そして『もっとお金を出す人を増やしたい』と思うようになる。
ところが
これらがすでに通じなくなってきていることにお気づきだろうか。
時代が進みこの『サービスの概念』も新たな局面を迎えつつある。
先述した『感動をお金で買う』という行為はそのほとんどが
巨大産業に牛耳られた。
その結果多くの人がたった数百円程度でもサービスを受けられるようになったのだ。
巨大産業はその膨大な資金力で肥大し
同じフィールドで戦っていた小規模産業をどんどん飲み込んだ。
その肥大ぶりは世界レベルに達し、果てしないグローバリゼーションへと加速する。
便利というのがもはや当たり前になり、徹底したマニュアル化とコストパフォ-マンスはもはや一般人が一朝一夕で到達できる次元ではなくなった。
便利さが加速すると失うものも当然出てくる。
ひとつは
『風情』が無くなった。
例えばお正月にはおせち料理があった。
三賀日に休みを積極的に取るため日持ちする料理を選りすぐったのが起源。
ところが今やどこへ行っても年中無休で。
比例するようにおせち料理を作る家庭も減っていく。
こうした現象から人が起こす行動もフラット化していき正解がどこかぼやけてしまうわけだ。
かくいう自分もその『ぼやけた状態』で苦しんだことがある。
3年前に商店街へ広告注文を取るためのセールスをかけた。
ところが全く結果が出ず。
その原因を『媒体そのものが弱い』と決めつけていた。
その分析自体はあながち間違っておらず、商店街の広告に集客効果があるなんて考えられないわけだ。
それでも連日あきらめずにセールスをかけた。
そんなとき
乾物屋のじいさんに衝撃的なことを言われた。
『あんたが言っとることはウソが多い』と。
閉店間際に訪れた先で言われた衝撃的な一言。
自宅に帰ってからもその言葉がずっと脳裏にあった。
数日後その言葉の意味を知る。
オレは良いことだけを口にしていた。
乾物屋のじいさんはそれこそ海千山千の人物で。
自分が説明する『ありきたりなセールストーク』なんてもう何回もいろんなトコから聞いていた。
便利で安いものがありふれてる世の中でセールスなんてのはほとんどいらない。
そこでやり方を変えてみた。
またしても乾物屋に行って今度は『数字が足らないので仕事ください』とバカみたいなことを言ってやった。
半分ヤケクソである。
そしたらじいさんは笑いながら『広告の原価をいくらまで抑えられるか』と聞いてきた。
一瞬マジかと思ったけど嬉しかった。
でも
原価聞かれた時思わずウソが出そうになった。
利益を考えるとある程度『乘せ原価』を言うのはビジネスの通例である。
でも
このじいさんにウソ言ってもバレる。(たぶん)
結局ホントの事を話した。
そしたらトントン拍子に仕事もらうことができた。
この出来事からものすごく大きなことを自分は学んだ。
それは
オレが相手にあわせるのではなく先方がオレにあわせてくれたことだ。
ウソや小手先だけでどうにかしようとした当時の自分はそれが見透かされ誰からも相手にされなかった。
もっと言うと
誰もついて来なかった。
人についていけるかどうかは本当のことをちゃんと言ってるかどうかが重要というのがわかった。
非力な人間にとっての最大の武器は『真実を話すこと』(重要)
相手のためにいくらあわせてウソを並べてもそれはいつか見抜かれるということだ。
ところがなぜセールスでウソを並べることが常習化していたのか?
それは巨大産業を見習おうとした風潮があったからだ。
『大きな組織がやってることは結果を出しているから正しいに決まってる』←コレ
でも
そこに落とし穴がある。
非力な人間が巨大産業のマネをしても結果など出やしない。
ちなみにこの『あわせる』ってのは、よくブログなんかでは『迎合』という言葉を使っている。
描く側が相手にあわせる記事を『迎合ブログ』とオレは呼んでいる。
これは巨大産業が提供しているサービスによく似ている。
読者は『あわせてくれる記事』をサラリと読む。
実はどうでもいいんだけど『あわせてくれるから』ということで取り持つ関係性。
描いてる側は『あわせる記事』を書きすぎていつの日か
『あわせてもらう記事』を書けなくなってしまう。
この『あわせてもらう記事』ってのは吐き捨てたような記事で。
つまりウンコみたいな記事。
老廃物だらけで汚いもんだから読めたもんじゃない。
もちろん人気なんて出やしない。
でも
そこにこそ非力な人間が目指すべき『真実を話すこと』ってのがある。
先日、関ジャニ仕分けの特番があってそこに森恵さんが出てた。
↑
決勝戦まで勝ち進んでた
彼女のファンになってもう3年になる。
自宅にはサインも山ほどある。
↑
神戸のグッゲンハイム邸でのギルド社限定タオルにもサインしてもらった
歌唱力があるかどうかは歌を聴いてもらえばいいかなと。
説明するより聴いてもらえばわかる。
森恵さんは音楽業界に元来ある『利権主義』に背を向けている人物で。
あえてイバラの道を選んだ。
んで路上シンガーへ。
普通のアーティストは売れるために歌う。
でも
彼女は『誰のためにも歌わない』という特殊なアーティストだ。
つまり
聴く側が彼女にあわせなければならない。
路上の場合だと足を止める必要があるし、ライブでも『CD買ってください』なんて一切言わない。
一見すると『なんでわざわざ』と思われるかもしれないが、そこにはものすごく大きな意味がある。
それは
『良い歌を聴き分けるチカラ』ってやつだ。
売れるかどうかなんて実はどうだってよくて。
ホントに良いものがわかるかどうかを試されているわけだ。
たぶん彼女は最後まで歌に関しては『あわせる行動』をとらないだろう。
でも
だからこそついて行こうとする人は少なからずいる。
どこ行っても『あわせてくれる』便利な世の中で。
ここは不便で誰もなんもしてくれないロクでもない世界だ。
劣悪な環境やこちら側があわせなければならない状況は決して心地よくない。
でも、自分で決めてそこにいるわけだから誰にも文句言われなくて済む。
森恵さんが示したことはオレの中にもしっかりとあって。
『型にはまらない』ってこと。
付き合いの長い人はもはや慣れてるかもしれないけど、表現において自分は人にあわせることは絶対にしない。
自分は非力な人間。
であればできることはただひとつ。
自分らしく進むのみだ。
マロン

