【ドキュメンタ】BFC【リー映画感想】 | さいですか。

さいですか。

ゲスくて畜生な内容ばかりです。よろしくおっぱっぴー。
※一部記事タイトルに好きな曲の歌詞の一節を使用しています。


 サウスパークにハマっていまして、コロラド州の街並みを調べたときにたまたま、ふと、2年の時履修していたメディアリテラシーの授業で、映画のワンシーンを見せられたのを思い出しました。その時に何が悪いか的な問題提起に様々な権威者が単語を答えていくカットがダダダダと流れてくるのですけれども、その時リアルタイムでみていた「サウスパーク」という答えがあったのを思い出しましてた。確か、漫画やゲームの暴力シーンの影響、みたいな分野だったかと思います。それが今日観た「ボーリング・フォー・コロンバイン」のワンシーンだとは確定的には思わなかったものの、何となくそんな感じをしていたというか。
 コロンバイン高校銃乱射事件について、何となく調べまして、興味を持ちました。それはわたくしの今の創作に銃があまり重要なシーンではないとはいえ、重要人物のベースになっていることが大きいかもしれません。まあ、創作ありきの知的欲求とも違うのですけれども。というか、その銃のシーンが、実はわたくしの身近というか、まぁ物理的な身近であったことがもとになっているので、銃を一般的に合法では所持しない法律がある国ですから、それはお察しなところではあるのですけれども。

 コロンバイン高校の乱射事件について調べたときに一番最初に見た記事が、犯人2人の友人というか知人というかそういう割かし身近な人物が様々な質問に答えていくタイプのスレでして。その方の著書と、その質問内に出ていたもう1つの本をアマゾンで昨夜ポチりまして。
 

 それでは前置きが長くなりましたが感想です。

 
 コロンバイン高校銃乱射事件に対するドキュメンタリーでは確かにあるのものの、そのもっと根底、アメリカの起こりとマーケティング、情報操作、銃に関することが軸。コロンバイン高校の銃乱射事件に突き詰めるドキュメンタリーだと思っていたのですけれども、まぁもとを辿れば銃だと。犯人たちはいじめられていて、そして銃を手にさせた、みたいな。いじめと、他の記事で知った腐敗した学校の雰囲気みたいなのが本当に原因なのかは100%の確信ではわたくしは思えないのだけれども。日本のいじめられっ子の末路が自殺に向くというのは不謹慎ながらお約束じみている気がする。学生が大体自殺すれば「いじめか」なんて見出しはつくでしょ。これは先走った偏見だろうか。アメリカでいじめが起きて自殺、これも聞くけれど、やはり銃が身近だと、いじめっ子を射殺なんてよくあるんじゃないか、なんて思ってしまう節はある。情報操作に踊らされやすいタイプなのだなと自分でよく思うよ。黒人差別についてはよくテレビでも、授業でも目にする。白人はなんてヒドいやつだ!!!って思っちゃうわけ。黒人を弱者とは言わないけれど、差別される側としては立場的弱者としたとき、立場的弱者を擁護することが正義だと錯覚しちゃうわけ。それが街中を歩いて、黒人とすれ違った時はどうだ。わたくしは戦いたで。自分が平均を下回る身長でか弱い日本人のしかも女だ。何かされるのではないかと怯えたことがあるで。そういう思い出がある。テレビで観る黒人を追い詰める白人わたくしのこの怯えの延長上にいるんじゃないのか。国が違うと歴史と文化も違って価値観も異なると思うけれども、長年自分の中で養われてきた価値観でいえば、黒人が歴史的というか民族的というか人種的逆襲をかますという錯覚は白人には強いのではないかというわたくしの邪推だ。よこしまな推測ということ。白人、黒人と2項でしか括れないのが何とも残念ではある。全員が全員じゃない。それはそうだ。頭では理解していないがなら、ここではこの2項でしか呼び分けができないの。


 サウスパークの作者が出演しているからだろうか、サウスパークっぽい感じの短いアニメーションで黒人差別に対する起こりみたいなのが説明されるんだけれども大分分かりやすい。不安と恐怖は何よりも消費に向かいやすい。娯楽は二の次。虫歯が怖いから口臭が怖いから気持ち悪いから歯ブラシを買う。「恐怖」という明確な概念でなくても、不快、不安、不愉快、それを取り除く。不衛生だから気持ち悪いから怖いからムシの駆除剤を買う。そういうもんか。そういうものなのかもな。恐怖を煽って経済を回す、上手くできているなぁ。
 サウスパークは極論すぎるマジで気の違っているスカトロ血みどろアニメーションだという認識だったのだけれども、実際そうなのかもしれない。みんなアレルギーなのかもしれない。事が起こった後は大変だ。話が変わってしまうかも分からないけれども、母と兄が強迫性障害でありまして、わたくし自体は診断を受けていないものの、幼少期から心配性な母をみていたもので今でも4度5度くらい家の電気と火の気を確認しないとなかなか大学に行けないというクセがある。きちんとそういう診断をしていないから、薬をもらっていないしそういう意味では薬で抑えられている母よりもひどい心配性といえるかな。まぁそんなことはいいのだけれども、アパートから出て鍵穴に鍵を挿し込むときに、「このアパートが火事になってしまったら?自分が原因で」ていう妄想をしてしまって怖くなるんだよ。「確認し過ぎないことも大事」だと母には教わっているけれども、事が起こってからでは遅いから。そういう心境はよく分かっている、あくまでつもりなんだよ。チキンナゲットを銃のように向ける生徒に自宅謹慎を言い渡す、アホらしいかもしれないけれど、神経質にいえば分かる気もするんだよ。銃が身近にない文化ではまた考え方も同じ国民と比較しても大幅に代わってくると思うから。周囲に銃で撃たれた人も、銃で死んだ人もいないから、その痛みとか、鉄塊に命を奪われたときの感情とかそういうの分からないけれども。モデルガンくらいとしか関わったことがない。それでもその威力は、怖いよ。痛いよ。

 誰かに殺される、そういう思い込みはある。今年からキャンパス替えで都心に住むことになった。通り魔に遭うんじゃないかって思ってしまうんだよ。通学路で、人とすれ違うとき、あるいは後ろから、刺されるかもしれないなんて思って身構えちゃう。でも銃で考えたことは、そういえばなかったかもしれない。銃で殺される自分を想像したことはなかった。薄い鉄の板っペラがわたくしの身体に侵入してわたくしを息絶えさせるんだ!そういう恐怖に病的なまで侵されることはある。でも鉛玉で考えたことはない。銃に対しての文化が、遠い。それでも違法に持っている人はいる。前述した距離的な意味で身近な・・・そうだな、心中事件なのだけれども、あれは違法な所持だと後から知った。


 単語だけなら何度も聞いた。詳しくは知ろうと思わなかった。海を跨いだ国のことで、わたくしは行く予定なんてないから。



 主観だから、あくまでこのマイケル・ムーア監督の立場で観ているから情報操作とか印象操作もあって、本質を見落としてしまうというか、感情移入が邪魔になってくることがあるかもしれない。たとえばKマートで銃弾を売るなって話。ニュースキャスターがカメラが向いていない時はしきりに髪を気にしている話。ライフル協会の会長の邸宅に凸ったときの話。冷静にみたときに、どういう選択がマトモで、各々がどういう立場にいて、価値観にあるか。価値観は譲歩の要素に成り得るのか。免罪符のようで、頻繁に使っておいてとても中身のない単語のように思えてしまう。
 金が生まれなければ生きていけない。銃弾を売れば金が入る。慈善団体じゃないんだから。でも人を傷付ける物を売る。それが国に2億なり3億なり出回っているものでも。メディアに晒されることはあるだろうな。
 悲劇的なニュースで食っている人たちもいる。悲劇的なニュースで掻き消されるスキャンダルもある。他人の不幸を喰らっているのかもしれない。火事がなければ誰が食っていけない?犯罪がなくなれば誰が食っていけない?虫歯がなくなれば?髪がなくなれば?全て善意でことは回るのか?ダイレクトに関わる職種の問題じゃない。そういうことじゃない。

 話がなかなかまとめられない。

 
 かなり冒頭に書いた授業のメディアリテラシーは授業後コメントペーパーを出すのだけれども、この時のテーマが、もう1年も前のことで覚えていないのだけれども確か、「ゲームや漫画の暴力シーンが与える影響についてどう考えるか」だったような気がする。わたくしは、「必ず影響を与えないとはいえない」と記載した覚えがある。わたくしが影響されやすい性格だから、サウスパークを見た時も下品な単語を使いたくなるのさ。暴力シーンとは違うけれど、作品に影響されているとしたらほぼ変わらないような気もする。勧善懲悪だなんだろうが、暴力がなければそこに納得ができない。正論を振りかざして敵役を納得させるそんな知的な作品もいいけれど、そこにエンターテイメント性を出すのは難しくないか?層も限られる気がする。思ったほど国民は頭が良くないし、思っているほど国民は馬鹿ではないと思う。便利な言い回しだな。
 イケメンを起用したドラマ、青春友情絆。でも仲間を傷付けたやつらはボコす。
 やられたからやる。やられてメソメソ帰ってくるのはダサい。
 仲間を傷付けたやつを許すのはただの臆病者。
 大切だと錯覚している人を守れるヒーローになりたい。


 考えていくと、わたくしの会った人、知ったこと、聞いたこと、見たこと、どんな些細な事柄にも関連してくる。長くなるけれど。
 たとえば、これもまた昨年に履修していた文章技法という授業。70近くのおじいちゃん先生の講義形式の授業。「罪のない子どもたち」という書き方を嫌っていた。「罪のない子どもたち?子どもなんて悪のかたまりみたいなものでしょう」的な発言が印象に残っている。そしてこのドキュメンタリー映画でもその言葉を思い出した。
 

 
 


 日本ではできないかもしれないな。メディアに媚び、国民に媚びている気がするんだもん。
 カメラの前のキャラを、カメラがないときでも保っていなければならないだもんな。