ネタバレ含みます。っていうかネタバレメインかもしれません。
コロンバイン高校銃乱射事件をモデルに作られた、ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」と、そのエレファントと同じ手法で撮影された「2:37」。邦題は「明日、君がいない」
「明日、君がいない」の方は何故かどういう経緯でウィキペディアを閲覧していたのか忘れたが、前に・・・とはいってもおそらく2年以内にはウィキぺディアを読んでさらにネタバレや感想サイトも閲覧していました。どういう経緯でしょうか本当に忘れてしまいました。名前が似ているという点で「明日ママがいない」か、自殺を取り扱った映画かゲイを取り扱った映画か・・・。
まずはエレファント。
主人公?というかほぼコナンとか金田一みたいな死神キャラなのですけれども、ジョンという多分地毛は黒と思しき脱色ヘアの少年。出くわしたキャラほとんど銃撃にあってます。生き残った子もいたけど。頭痛いときに目に入れたくないような黄色のシャツ着ています。ゾウかな?バッファローに見えたんだけどそんなようなプリントシャツ。吹き替え声優さんがサウスパークでスタンの吹き替えと同じ結城比呂さんなんですわな。
娯楽映画としてみるなら本当に退屈というか、特に何ということは起きないです。後半までは。視点のリレーというか。授業で7分という短さだけれども、グループ制作でドキュメンタリーを撮らされたことがある身としては、カメラの視点って物理的にもキャラの視界的にも意外と悩む。この映画はドキュメンタリーではないものの、ドキュメンタリーってカメラが物事の起こりを捉えていなければならんでしょ。常に対象物をカメラが捉えている。もしくは対象物がそれを語る。エレファントはただカメラが日常を追う。誰かがそれを説明することもない。後半までは。そこにゾンビが現れることもないし、恐竜が追ってくることもない。美少女が降ってくることもない。ただカレカノと待ち合わせたり、趣味に没頭したり、世間話や愚痴に花を咲かせたり。もしかしたらそれが誰かにいじめられていたり、もしかしたら先生に怒られていたり。それが日常なら、そういう時間が理不尽に、平等に、矛盾しないように流れているんだなと。
後半は、犯人と思しき少年とその親友らしき友人が銃を手に入れる。そして計画を練って、学校を襲撃する。ここでやっと、犯人のうちの片方、エリックがこの映画の本質か、メッセージか、もしくはただのエリックというキャラの本心なのかも分からないけれど、それらしいことを口にする。この学校の腐った状態を怒鳴りながら、校長に銃を向けるのだ。
たまたまコロンバイン高校の事件の犯人と同じ名前なだけで、この映画の中の登場キャラの名前は演じている役者さんとほぼ同じなようだ。
事実と違うのは、エリックは、犯人のもう1人のアレックスに射殺されるのだ。
そしてオチがない。アレックスがカップルのどちらかを殺そうと迷っているところでカメラは離れていき、突然終わる。突然。明日が、数時間後が、数分後があるかのように我々は予定を組み、想像するけれどそれを否定されたように。背後から突然殴られたように、張った糸が切られちゃったみたいに、突然明日も、数時間後も、数分後、もしかしたら数秒後の可能性を絶たれる。そういうものなのかもな、銃乱射も、強盗も、強姦も、自殺も。
残るのは言いようない静寂感だったな。ちょっと夜更かしこいてる時にみたのもあったけれど。
それにしても男性は美形ぞろい。いじめられっ子っぽい女の子もいます。今風ギャルっぽい女子と、カレシ依存っぽい女の子、それから清楚っぽい感じの女の子。この清楚っぽい女の子はアケイディアというのだけれども、服装がかわいい!袖がふりふりしてる。パッケージはこの子がジョンの頬にキスしているところ。ジョンが泣いているところにやってきて、キスしてくれる。そして同性・異性愛の会みたいな座談会に行ってしまう。監督がどうやら同性愛者らしい。同性愛に対して何が差別的で偏見じみているのか分からないから、ここはあくまでわたくしの自然な言葉の選び方でいえば、役者の男性が全て美形なのは監督の好みかそれとも内容が内容なだけに役者だけでも・・・ってことなのか、偶然か。日本人の、しかもわたくしの守備範囲が広いから???そういう風に見えてしまうのか。写真部かな?カメラを手にしているイーライって子がかわいいのよ・・・
そして犯人視点は主にアレックスなのだけれども、襲撃前にシャワーを浴びていると、エリックがやってくるの。そして、自分はまだキスの経験がないことを打ち明けると、エリックは黙ってアレックスにキスするの。これがBLだとか腐だとか、ゲイだとか、そういう見方はもちろんある。わたくしにもある。んお!?って思ったもん。さらに役者が綺麗なのもある。かわいい系と美人系。しかも白を基調としたシャワー室。それで、まぁこれはわたくしが最初にこれがコロンバインの事件のモデルだと知っていたのもあるけれど、彼等は死ぬことが前提だったことを自覚しているわけ。自分に置き換えたとき、身体を重ねるとかは置いておいてもチュウくらい最期いいんじゃないか?って自分の性的対象外が相手でも思ってしまうかもしれないな。身体を重ねることと、チュウ、どっちが大事で重いかってのはまた別として。チュウのが重いからこそ、最期を共にする相手とは、って意味かも分からないし。
まぁ事実のエリックとディランがそういう関係にあったかどうかっていうのは分からないし、あくまでこれは「エレファント」という映画の中の話だけれども。
オススメする映画で挙げる作品でもないし、楽しかった映画に挙げる作品でもない。感動もなく、そこに☆いくつと評価する映画でもない。ただ言いようのない何かが残る。それはシャワー室で彼等が交わしたチュウの光景かもしれない。エリックが校長に銃を向けながら言葉を発した場面かもしれない。イーライが銃撃直前にアレックスにカメラを向けた瞬間かもしれない。ワンシーン、ワンシーンがただ頭の中にある。ボロくそにdisる、ここがダメだった、こうすべきだった、とかそういう感想もない。夢のようなものなのかも。このコロンバイン高校銃乱射事件に興味がなかったら観ようとは思わなかった部分はある。後半までの何でもない日常、ゲリラ的に見えないカメラがどこかの学校に入ってきた体(てい)らしき感じは後半のためのものなのかもしれない。3.11だって、これは自然災害だけれど(原発どうこうは置いて)地震がくるまでは日常だった。わたくしの学校では購買で万引きがあった。授業は退屈でワークはテキトーにこなして、隣の壁にもたれていつも通りだったのだから。ここにフラグめいた何かなんてなかった。
メッセージ、教訓、そこにはないのかもしれない。射殺されていった生徒に向けての同情か、衝動の行き場をなくした犯人への同情か、銃がネットで簡単に買える社会への批判か、ピアノの音が煽る悲愴感か、何が残るのか。分からない。ただ残るのはワンシーン、ワンシーンの記憶。
続いて「2:37」と「明日、君がいない」
近親相姦、家族から目を向けられない、ゲイ、リア充だけど隠れたセクマイ、身体的障害、カレシ依存、それから―
結論からいうと、自殺していまうのはケリー。ネタバレサイトを見てからこの映画を観たので最初から頭はケリーと思しき少女に行ってた。ケリーは最期まで名前は出ません。彼女はこの映画の中では存在しない。死ぬことでしか誰かの頭の中で存在できなかった、そんな感じなのかもしれない。モブ。名前を与えられなかったモブ。でもモブの中でもさらにモブだった。嫌なことを言って、観る者に不快感や憎悪を植え付けたモブにもなれなかった。ただいい子。誰かに存在感を植え付けたくて、いい子でいたかった、けれど記憶になんて残らないモブ。そんな感じだったのかも。わたくしは、存在感が薄いと思う。身体的に小さいのもあるかもしれない。持って生まれた何かかもしれない。自己主張したら嫌われる!そういう思い込みからくる性格上のものかもしれない。でも人の顔とか名前はすぐに覚えられる。だから話しかけたとき、「誰お前?」みたいな表情されることがなくはない。最近の例でいえば3年になって研究室が別れて、形式上初めて顔を合わせることになった人々の名前と顔、作品をわたくしは頭に入れていたけれど、それはわたくしだけだったのだ。そういうものだ。そういうもんだ。この特技に気付いたのは大学1年のとき。20年間生きているには遅かったのかもしれない。それでもわたくしが顔と名前を覚えていたから友達になれて、今でもその付き合いが続いている友人はいる。
わたくしは自殺をdisるつもりはない。バカだとか、生きてれば必ずいいことがあるだとか、他人に迷惑をかけるなとか。そりゃさ、待ち合わせに遅れそうで人身事故が起きて電車遅延になったら嫌だけど。わたくしが電車にあまり依存しない田舎の出っていうのもあるかも。高校3年間で人身事故が通学圏であったの2回だけで1回目はわたくしが乗る電車の1本後だったし。実家がとても線路に近くて、わたくしではなくて母は人身事故の死体だとか飛び降りる瞬間(線路の上を陸橋があって家から見える)を見たことがあるらしいけれど。 わたくしは赤い首輪のついた柴犬の轢死体をみたことがあるよ、線路で。今でも思い出すしトラウマだ!といえるほどのトラウマではないけれど、なんだかな。怖かった、というよりは不思議な気持ちでいっぱいだった。死と隣り合わせなんだな。でも死ぬことで存在を知ることがある。
ケリーの最期はリアルではなかった。手首を切ってはなかなか死なないと聞いたことがあるから。でも出血多量だった。痛々しくてこっちが呻きそうだった。この映画は1人1人インタビューされている体(てい)で各々のことを話すのだけれども、ケリーだけない。あれだけ主要人物に関わっておきながら。ケリーは最期に名前とともにインタビューされる。彼女が語るのは姉のこと。姉の息子のこと。笑って。無表情や苦笑で、皮肉や不満、夢を語る彼等の中でケリーのインタビューは笑顔で明るい印象を受けた。でもケリーは手首を掻っ切って自殺した。
人の忍耐・我慢・苦痛のラインなんてそれぞれ。それでもある程度の感情移入で、こっちの方がキツい、こっちのが自殺モンだ、こんなの生きていたくない、それぞれあるだろうな。わたくしも順位づけしちゃったよ。メロディという少女の兄からの性的暴行による妊娠、それと尿道の問題で自覚なく漏らしてしまい、教師や他の学生から嘲笑されるスティーブンという少年。成績主義だが妹を孕ませてしまったマーカス、ゲイだけど理解がなくヤク中のショーン、実は隠れゲイだけど体裁のためにノンケを装いカノジョに依存されるルーク、カレシ依存症で将来の夢はルークのお嫁さんのサラ。
でも死んだのはケリー。マーカスに冷たくされたから?スティーブンにお礼を言われなかったから?どれ?どれ?どうして?どうして彼女はシンダノ?分からないのだ。でもそういうものなのかもしれない。今にも死にそうなことを抱えたやつらではなくて、誰にも理解されない事情を抱えた人が死んでいくのかもしれない。こうしたらいいじゃん。ああしたらよかったんじゃん。どうしてこうしないの?なんであの子が?こんなんで自殺しちゃうの?よくフテブテシく生きてるね!!そんなものなのかも。結局推測でしかない。そこに自分で死んだ人々への事情や内情を知り、理解できる人々がいるか否か。ここでわたくしの伯父の自殺を明かしていいものか否か。伯父のことはよく覚えていない。今年で10年になる。だから覚えていないのではなくて、もともとあまり交流がなかった。だから8年間同じ学び舎にいて、そこそこの交流があった同級生の自殺の方がわたくしにとっては身近なものだった。異性だけれど、性格上のものもあってか彼とは異性の同級生の中でも比較的交流があったように思える。田舎だと小学校は小規模だし、40人以下のもしかしたら30人以下だったかも。そんな1クラスが×3だ。そして私立受験は主流ではない。だから学区が別れることもなくそのまま中学校に上がる。
気の弱い、けれど面白いやつだった。親バカなのもあったのかな、ガチで勘違いしている部分もあってそこは恐れを抱くほどではあったが、それも許容できるくらいに他の部分で面白い、ユーモアに溢れているやつだった。不良じみたクラスに1人はいるようなやついるだろ?そいつにいじめというよりは脅されているところは見たことがある。「今日遊べるよな?」って感じで。でもそれはもう小学生の頃の話。中学に上がって彼は変わった。急にね。詳しくは書かないよ。今はあくまで映画の感想。
なんで彼が?彼女が?
わたくしの立場上では共感できる映画だった。
そしてショーンとルークがチュウするシーン。ビックリだね。ルークはなんだか自分の性癖に対してすごく思わせぶりな描写が多い。メロディのことを6歳から知っていると言い出したり。実はルークの登場のしかたが、オ×ニーシーンからなのですけれども、ディスプレイを見ながらなのネ。そしてこのディスプレイが何を写しているのか、ってなわけ。6歳のメロディで、実はロリコンなのでは??なんて思わせておいて、実はゲイサイトを観て×ナニーしているんです彼。ショーンはルークがゲイなのを知っていた。直接描写はないけれど、ショーンが「俺だって恋に落ちる」だとか「好きなやつがいる」とかこのキスシーンの後にインタビューで答える。ルークのことなのかな?ショーンの登場時はルークを気にしている様子だったし。
ルークはサラというカノジョがいて、かなりルークのことが大好きで会えばチュウしてる。でもルークはゲイだった。でもルークの立場はスクールカーストで言えば上の方なのだ。常に友人に囲まれた人気者なのだ。だからゲイであることがバレてはいけない。ルークとショーンの会話をスティーブンに聞いてしまって、スティーブンは殴らる。言葉では先生にも女生徒にも男生徒にもいじめられていたけれど、ここ映画の中では初めてスティーブンは物理的暴力を振るわれる。ルークも声を荒げて。気の強そうでゲイを隠さないショーンは1人汚れた部屋(倉庫?)泣き、いいカップルの片割れを演じていたルークは寄ってきたカノジョ・サラを突き飛ばしどこかに行き、先生にすら皮肉を言われても涙は見せなかったスティーブンは鼻血を流しながら涙を見せる。趣味は悪いし胸がスカっとするシーンではないけれど、わたくしはなんでかこういう感情が高ぶってるシーンが好きなようだ。
この映画は6人の中で誰が自殺するのか?みたいな導入なのだけれど、まぁ実際は7人めのケリーなのだけれども、ルークやショーンも勢いで自殺、の可能性が性格上読み取れなくはなかった。かなりコトが重そうに見えたメロディやスティーブンと違ってルークやショーンは勢いでっていうのがありそうに思えた。これも結局は、ケリーが自殺することを見抜けない「他人フィルター」でしかないんだけれども。でも「他人フィルター」でないと物事は見られないし共感だってできない。二面性やガチの多重人格があるやつらだっているけれど、あくまで外面だけも自分の中で、「この人はこういうヤツだ」っていうのは認識しているはず。物理的な監視はできても精神面のことを完全に把握なんてできないのだから。4つの窓の話をするつもりはない。でもな、やっぱ、会話や日常の生活のなかで、「この人はこういう感じの人でこういうことが好きで~~」っていう認識が植え付けられていくのはあると思う。会えば会う度その人の名前と顔以外の認識がリセットされていく、そういう病気や障害もあるかもしれないけれども、それは少数派だと思うんだけれども。その少数派の尊重も大事だとは思うがここでの話題ではない。
誰が自殺するか分からない。誰も自殺しないかもしれない。もしかしたら誰が人を殺すかも分からない。何かをきっかけに自分かもしれない。知っていたら助けられたかも・・・それすらも実際知ったとき、分からないのだ。そして止めるべきなのかも。何を価値観に止めていいのかも分からない。本人を思ってか、自分を思ってか、家族を思ってか。
何かを教訓として見出す映画ではないのかもしれない。ただ誰がいつ自殺していまうのか分からない、そういうのだけ。
孤独感は、何よりつらい、ということだろうか。